諏訪御料人(すわごりょうにん、享禄2年(1530年) - 弘治元年11月6日(1555年12月18日))は、武田晴信(信玄)の側室で武田勝頼の母。諏訪頼重と側室の小見(麻績)氏の娘(太方様)。諏訪御「寮」人とも表記される。異母弟には、頼重の後室の禰々の産んだ寅王(千代宮丸)がいる。実名が不詳で、史料上においては諏訪御料人(御寮人)・諏訪御前(いずれも貴人の女性を指す)と記されている。 諏訪御料人の生年は確実な史料からは判明しないが、『甲陽軍鑑』に拠れば諏訪御料人が信玄に輿入れしたのは天文14年に14歳の時とされており、これに従えば享録2年(1530年)生まれとなる[1][2]。『甲陽軍鑑』では、諏訪御料人を「かくれなきびじん」と記しており、容貌を讃えている[2]。 父の頼重が諏訪氏当主であったころ、諏訪氏と甲斐守護の武田氏は同盟関係にあり、頼重正室には武田信虎の娘・禰々御料人が迎えられていた。天文10年(1541年)6月に信虎は嫡男晴信(信玄)により追放される政変が発生する。同年7月、関東管領の上杉憲政が小県郡へ侵攻すると、頼重は上杉氏と和睦・領土分割を行い、晴信はこれを盟約違反と捉え、翌天文11年6月には諏訪氏との同盟を破棄し、諏訪へ侵攻する。 武田氏により諏訪地方は制圧され、父の頼重は同年7月22日に甲斐国・甲府の東光寺において死去する。信玄は当初、諏訪家惣領に頼重と禰々御料人の子である千代宮丸を擁立したが、やがてこれを破棄し、自らが頼重の娘を側室に迎え、生まれた男子に諏訪惣領家を継承させる路線を選択したという[1]。 諏訪御料人が甲斐へ輿入れした時期は、天文12年(1543年)説、天文14年(1545年)説がある。天文12年説は、『高白斎記』天文12年12月15日条に「禰津より御前様」が輿入れしたと記されている記述を、諏訪御料人の輿入れと解釈したものである。この説は根拠が不詳で、武田系図に拠れば禰津元直の娘が信玄の側室として嫁していることから、「禰津より御前様」を諏訪御料人に比定することには慎重視する説もある[3]。建福寺 一方、天文14年説は『甲陽軍鑑』に拠るもので、諏訪御料人は天文14年・14歳のときに信玄の側室となり、甲府の躑躅ヶ崎館に迎えられたという。『甲陽軍鑑』『武田源氏一統系図』によれば、天文15年(1546年)には勝頼が産まれている[2]。『甲陽軍鑑』に拠れば、頼重の娘である諏訪御料人を迎えることには武田家中に反対論があったと言われ、山本勘助が家中を説得したとする逸話を記している。 諏訪御料人は弘治元年11月6日に死去する。没年は天文23年(1554年)とも。墓所は長野県伊那市高遠町の建福寺(当時は乾福寺と称した)[2]。『鉄山集
略歴
『武田御日坏帳三番』によれば、永禄12年(1569年)7月13日には、勝頼が高野山成慶院に位牌を奉納している[2]。また、『鉄山集』『仏眼禅師語録』によれば、勝頼は元亀2年(1571年)11月1日に、高遠において鉄山宗純
を招いて十七回忌の法要を実施している[2]。なお、晴信の側室になるにあたり敵将の娘では都合が悪いため、禰津元直の養女になったとの説があり、この場合、禰津御寮人と同一人物とされる。この説に従えば勝頼だけでなく、信清も諏訪御料人の子ということになり、信清の生年とされる永禄3年(1560年)または永禄6年(1563年)まで生存していたことになる。 早くに死去したとされる諏訪御料人に比べ、その生母の麻績氏は、武田家の当主となった武田勝頼の外祖母として、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡まで存命している。お太方様(おだいぼうさま)と称された。 天文11年(1542年)に、夫の頼重が切腹し、諏訪惣領家が滅亡した後は、同じ諏訪氏の一族の禰津元直の元に、娘と共に身柄を預けられていたという説がある。
生母・麻績氏(太方様)の消息