諏訪 哲史
(すわ てつし)
誕生 (1969-10-26) 1969年10月26日(54歳)
日本・愛知県名古屋市
職業小説家・批評家・随筆家
言語日本語
国籍 日本
教育学士(文学)
最終学歴國學院大學文学部哲学科
活動期間2007年 -
ジャンル小説・批評・随筆
代表作『ロンバルディア遠景』(2009年)
『領土』(2011年)
主な受賞歴群像新人文学賞(2007年)
芥川龍之介賞(2007年)
デビュー作『アサッテの人』(2007年)
影響を受けたもの
種村季弘
ウィキポータル 文学
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諏訪 哲史(すわ てつし、1969年10月26日 - )は、日本の小説家、批評家、随筆家。 愛知県名古屋市出身。幼少期には宮城県仙台市で5年ほど過ごした。仙台市立燕沢小学校[1]在学中から1週間に10冊の本を読んだ。 愛知県立名古屋西高等学校、國學院大學文学部哲学科卒業。大学在学中から卒業後まで独文学者の種村季弘に文学・美術・宗教・思想など広範な分野にわたり個人指導を受ける。卒論は西欧十九世紀末芸術ラファエル前派論[2]。哲学科では美学者の谷川渥にも師事した。 1992年から名古屋鉄道で勤務する傍ら、種村季弘に読んでもらうために詩作を行なう。1998年、名鉄を退社し、2年間引きこもった末に書き上げた初の小説「アサッテの人」で種村季弘に認められる。30歳で再就職。2004年、種村季弘が死去。2006年、諏訪の実父が死去。この時期、亡父と同じ躁鬱病(双極性障害)を発症し、生涯にわたる治療が始まる[3]。失意の内に初めて投稿した「アサッテの人」が、2007年に第50回群像新人文学賞を受賞。同年に同作品で第137回芥川龍之介賞を受賞する。この2つの賞の同時受賞は村上龍以来の31年ぶり。脱稿から8年後の受賞だった。この作品には、幼いころ吃音に苦しんだ経験が投影されている。 変幻自在な文体を駆使し、<自意識の哲学>を追究する作風であると評される。小説集『領土』では詩的な文体と物語の幻想性を同居させている。2012年刊の『スワ氏文集(すわし・もんじゅう)』ではコラムニスト、随筆家として、2014年刊の『偏愛蔵書室』では詩・小説・漫画などを対象に批評家としての仕事を行なう。谷川渥は『偏愛蔵書室』について、「批評家」諏訪哲史の面目躍如、と評した[4]。 連載中のコラムに「昭和の少年」(毎日新聞東海版、2023年4月 - 、毎月第4木曜朝刊)がある。 2009年から愛知淑徳大学文化創造学部准教授、2012年から同大学の学部名変更によりメディアプロデュース学部准教授[5]、2016年から東海学園大学人文学部教授、2019年からは同大学同学部の客員教授を務める。2019年から母校愛知県立名古屋西高等学校普通科の創造表現コース特別講師に就任。 2022年4月から名鉄カルチャースクール名古屋駅校で毎月第3土曜の午後に文学講読の講座「月イチ読書」[6](常時入会可)を担当する。 2013年12月、パリ第3大学から独立したフランス国立東洋言語文化学院(INALCO)の国際シンポジウムに日本の作家として招待され、日本文学の現状について発表した[7]。 作風や文体など、小説という形式に対して常に疑問を抱き、執念深く自問自答する姿勢から、「小説狂」・「文学的テロリスト」などと評されることもある。[8] 諏訪の随筆によれば、40歳でそれまでの読書量が1万冊を超えたものの、種村季弘は同じ年頃にその倍は読んでいたらしいと思い至り、絶望したとある。[9]。 第137回芥川賞贈呈式(2007年8月22日)では、アカペラで細川たかしの「心のこり」の1番を歌った[10]。 2021年12月刊の『スットン経』によれば、携帯電話やスマホのたぐいをこれまで持ったことがなく、ネットも見ない。また、死ぬまでに読みたい本・再読したい本がなお2000冊はあり、今でも一日平均6時間は読書をしている[11]。 高校時代から一人旅を始め、大学時代に鉄道等で日本各県を踏破、海外も50カ国以上を放浪した[12]。 自身も車掌を務めた経験のあるパノラマカー(名鉄7000系電車)の引退に伴い、かつて勤務した名鉄からの依頼により、ホームページの特設サイトにてエッセイを掲載している[13]。 諏訪のサイン(著書への署名)は「一筆書きツァラ」と称され、ルーマニア生まれのダダ詩人トリスタン・ツァラが右目に片眼鏡を嵌めた戯画を一筆書きするというもの。
来歴
人物