請西藩
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請西藩庁が置かれた真武根陣屋遺址

請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に存在した望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)を藩庁とした。戊辰戦争時に藩主の林忠崇が新政府軍と交戦したため、戦後に改易された唯一の藩として知られる。

林家が1825年に大名になった当初は、望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋を藩庁としていた。1850年に請西に移転するまでの林家の藩については貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。明治維新期には駿河国小島藩主であった滝脇松平家が当地に移され、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。

本項では貝淵藩・桜井藩についても併せて解説する。
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}千葉上根岸請西金ヶ崎 関連地図(千葉県)[注釈 1]1.真武根陣屋(請西陣屋) 2.貝淵陣屋(桜井陣屋) 3.八剱八幡神社(この周辺が近世の港町・木更津にあたる)
貝淵・請西藩
貝淵藩1927年(昭和2年)に建てられた「献兎乃記念」碑(上根岸の八坂神社)。「献兎賜盃」の儀に使われる兎が上根岸村で捕らえられていたことにちなむ。

林家(三河林氏)は小笠原氏の支流を称する三河譜代の家である。江戸時代に入ると旗本として代々番方を勤めており、元禄年間に長崎奉行町奉行を務めた林忠和(忠朗)は加増を受けて3000石を知行した[1]。忠和の後は忠勝―忠久―忠篤―忠英と続く。

林家の家伝によれば、松平家の祖である有親親氏親子が信濃で窮した際に、筑摩郡林郷(現在の長野県松本市里山辺付近)に住していた旧知の林光政(林家の祖先)を頼ったことがあった。光政は雪の中で兎を捕らえて吸い物にし、有親・親氏に振る舞った[2][注釈 2]。これを開運の嘉例とし、徳川幕府の下では正月行事として、林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から一番に酒を賜るという「献兎賜盃」の儀式が行われることとなっていた[2]

天明7年(1787年)4月に徳川家斉が11代将軍に就任すると、忠英は小姓として仕え、家斉の寵臣となった。寛政8年(1796年)に家督を相続した忠英は、小姓番組頭格・御用取次見習・御側御用取次などと栄進し、さらに加増を重ね、文政5年(1822年)には7000石を知行する。

文政8年(1825年)4月、若年寄に昇進して3000石の加増を受け、計1万石の大名に列して貝淵藩が成立した。天保5年(1834年)12月には3000石、天保10年(1839年)3月には江戸城修築などの功を賞されて5000石を加増され、計1万8000石を領した。しかし、家斉が天保12年(1841年)1月に死去すると、将軍家慶と老中水野忠邦による粛清を受け、4月に8000石を没収されたうえ、若年寄も罷免された。さらに同年7月には強制隠居を命じられた。

天保14年(1843年)6月には、天保の改革の一環として行われた印旛沼堀割の手伝普請を命じられた。家斉没後に8000石もの加増地を失った藩財政はさらに逼迫した。
請西藩

嘉永3年(1850年)11月、忠旭は藩庁を貝淵陣屋から1.5kmほど内陸に位置する望陀郡請西村の高台に築いた真武根陣屋(請西陣屋)に移した。以後この藩は請西藩と呼ばれる。貝淵陣屋の方も藩の地方役所としてそのまま使われた[注釈 3]

2代藩主忠交は伏見奉行在任中の慶応3年(1867年)に急死し、若年の嫡男忠弘に代わって甥の忠崇が家督を相続した。

慶応4年(1868年)、上総に転じた遊撃隊による助力要請に接した忠崇は旧幕府側に与することを決し、自ら脱藩して同藩士とともに遊撃隊に加わった。出陣に際して請西の陣屋を自ら焼き払っている[4]

忠崇らは房総相模で新政府軍と戦闘したのち、以後は旧幕府勢力の籠る東北各地に転戦した。こうした忠崇の行動は新政府の怒りを買い、明治元年(1868年)に所領を没収された。戊辰戦争のうち城地をすべて没収されたのは請西藩と会津藩会津松平家のみであるが、会津松平家は松平容大に対して新たに斗南藩3万石が下賜され、華族に列されている[5]。そのため林家は江戸時代には諸侯でありながら、明治政府には諸侯扱いされず、華族にはならなかった唯一の家となった[6]
明治維新後の林家


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