説経節(せっきょうぶし)は、日本の中世に興起し、中世末から近世にかけてさかんに行われた語りもの芸能・語りもの文芸[1]。仏教の唱導(説教)から唱導師が専門化され、声明(梵唄)から派生した和讃や講式などを取り入れて、平曲の影響を受けて成立した民衆芸能である[2]。近世にあっては、三味線の伴奏を得て洗練される一方、操り人形と提携して小屋掛けで演じられ、一時期、都市に生活する庶民の人気を博し、万治(1658年-1660年)から寛文(1661年-1672年)にかけて、江戸ではさらに元禄5年(1692年)頃までがその最盛期であった[1][2][3]。
単に「説経(せっきょう)」でこの芸能をさすこともある。古くは「せつきやう」と仮名書きする場合が多く、「説経」「説教」両方の字があてられるが、現代では「説経」と表記するのが一般的である[1]。説経(説教)はまた、これを演ずる芸能者をさすこともあり、その意味では「説経の者」、「説教者」(蝉丸神社文書)や「説経説き」(『日葡辞書』)のことばがある[1][3]。
説経が唱門師(声聞師)らの手に渡って、ささらや鉦・鞨鼓(かっこ)を伴奏して門に立つようになったものを「門説経」(かどせっきょう)、修験者(山伏)の祭文と結びついたものを「説経祭文」(せっきょうさいもん)と呼んでおり[2]、哀調をおびた歌いもの風のものを「歌説経」、ささらを伴奏楽器として用いるものを「簓説経」(ささらせっきょう)、操り人形と提携したものを「説経操り(せっきょうあやつり)」などとも称する[1][注釈 1]。また、近世以降に成立した、本来は別系統の芸能であった浄瑠璃の影響を受けた説経を「説経浄瑠璃」(せっきょうじょうるり)と称することがある[1]。
徹底した民衆性を特徴とし、「俊徳丸(信徳丸))」「小栗判官」「山椒大夫」などの演目が特に有名で、代表的な5曲をまとめて「五説経」と称する場合がある(詳細後述)[2][4]。 鎌倉時代末期に虎関師錬によって著された『元亨釈書』巻二十九(「音藝志七」)には、 本朝音韻を以て吾道を鼓吹する者、四家あり。経師と曰ひ、梵唄(ぼんばい)と曰ひ、唱導と曰ひ、念仏と曰ふ。 とあり、音声をもって日本の仏道を隆盛たらしめるものとして「経師」すなわち説経師、梵唄(声明)、唱導、念仏の4種があったことが示されている[5]。これは、鎌倉末期にあっては、説経と唱導がたがいに異なるものと把握されていたことを示している[注釈 2]。虎関師錬『元亨釈書』(1322年)巻二十九(一部) 「経師」(説経師)について記されている。 ところが「説経」も「唱導」も本来は、仏法を説いて衆生を導く営み全般を指しており、仏典を講じてその教義を説くことを意味していたのであって、それ自体は文学でも芸能でもなかった[6]。しかし、従来仏教の保護者であった朝廷や公家の衰退が著しい中世にあって、文字の読み書きのできない庶民への教化という動機から、しだいに音韻抑揚をともなうようになったものである[6][注釈 3]。それはまた、比喩・因縁など説話の部分が庶民にとっては親しみやすく、そこから文学方面の関心を強めることにもつながり、これを「唱導文学
説経の歴史
説経節の源流
唱導(説経)文学
「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫であるが[7]、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べているように、唱導文学はむしろ芸能としての説経に多大の素材をあたえた[8][9][注釈 5]。
「唱導文学」(説経文学)のおもな担い手は、高野聖その他の廻国聖、山伏、御師、盲僧、絵解法師、熊野比丘尼、各地の巫女など下級の宗教家であり、その意味では折口の指摘する通り「漂遊者の文学」「巡游伶人の文学」であった[6][8]。