誉田御廟山古墳
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誉田御廟山古墳 / 誉田山古墳
応神天皇陵・北側から空撮(2019年)
所属古市古墳群
所在地大阪府羽曳野市誉田
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度33分45.37秒 東経135度36分33.16秒 / 北緯34.5626028度 東経135.6092111度 / 34.5626028; 135.6092111座標: 北緯34度33分45.37秒 東経135度36分33.16秒 / 北緯34.5626028度 東経135.6092111度 / 34.5626028; 135.6092111
形状前方後円墳
規模墳丘長約425m
出土品埴輪
築造時期5世紀初頭(401‐420年頃[1][2])
被葬者(宮内庁治定)第15代応神天皇
陵墓宮内庁治定「惠我藻伏崗陵」
史跡国の史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」(「古市古墳群」に包含)
特記事項全国第2位の規模[3]
地図.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}誉田御廟山古墳 大阪府内の位置
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誉田御廟山古墳のステレオ空中写真(1985年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)または誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳古市古墳群を構成する古墳の1つ。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている[4]

名称は「応神天皇陵(おうじんてんのうりょう)」とも呼ばれることがあり、大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ全国第2位の規模である巨大古墳。

2008年9月26日大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)を含む古市古墳群世界遺産の国内暫定リストに追加されている。2019年5月14日にユネスコの諮問機関「イコモス」は前年9月に行った現地調査などの結果、世界遺産への「登録が適当」とする勧告を提出した。2019年6月30日からアゼルバイジャンで開かれる予定の世界遺産委員会で正式に登録が決定する見通しとなった。

ユネスコの世界遺産委員会は7月6日、アゼルバイジャンの首都バクーで行われている新たな世界遺産を決める会議において日本が推薦する大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産としての登録が正式に決定した。
古墳の概要

5世紀初頭の築造と考えられている。立地条件は、必ずしも良いとは云えない。それは、土質の安定した段丘と不安定な氾濫原という異質の土地にまたがって墳丘を造営しているためという。また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。なお、前方部の一部が崩れているのは734年、及び1510年にこの地で内陸直下型の大地震があったためと考えられており、前方部の崩落部分のほぼ真下を活断層生駒断層帯が走っている[注釈 1]

宮内庁が管理しており、立ち入って学術調査が出来ないため確かなことが分かっていない。

古墳本体を覆う植生やそれによる生態系は良く保たれている。これは、隣接する誉田八幡宮の神域の森として保護されてきたためである。内濠にはヒメボタルが生息する[5]
規模

当古墳の規模について、羽曳野市の公式サイトでは以下の数値を公表している[6]

墳丘長:約425メートル

後円部直径:250メートル

後円部高さ:35メートル

前方部幅:300メートル

前方部高さ:36メートル

ただし、どの部分を古墳の裾とするかには議論があり、これらの長さには諸説がある[注釈 2][注釈 3]。ただし、全長約420メートルという墳丘長は大仙陵古墳に次ぐ大きさであり、体積は143万3960立方メートルにおよんでいる。墳丘長、体積共に日本第2位の大王陵である。
周濠国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

周りには二重の堀をめぐらしており、広大な内濠の外には幅約48メートルの中提があり、その外に築造当時は幅約35メートルのもう一重の濠(外濠)のあった形跡があり、それを巡る外提は幅約15メートルあったと推定されている。濠の水深は170?250センチメートルと大仙陵古墳と比較してかなり深い。二重の濠と外堤が築造されたのは西側だけであり、東側の外濠や外堤は築造されなかったことが明らかになっている[4]
出土品蓋形木製品・東京国立博物館展示

埴輪の種類が多い。円筒キヌガサ、家、盾(たて)、甲(よろい)、草摺(くさずり)、水鳥など。内濠から土師器と共に魚形土製品が10個出土している。烏賊(いか)海豚など。これらの土製品の解釈には様々な説がある。

円筒埴輪や円形埴輪、後円部側の外濠の外部で馬形埴輪なども出土している。直径74センチメートルの笠形の木製の埴輪も副葬されていた。木製製品はこれまで、内堤までと考えられていたが、外堤にも立てられていたことが推測される[4]

水鳥形埴輪
東京国立博物館展示。

陪墳

指定を受けている陪墳ものは5基ある。残りが民有地であるため古墳の破壊が続いた。
盾塚(たてづか)

帆立貝式古墳、誉田山古墳の北東の方角にあり、濠の外にある。築造年代は、誉田山古墳より先行する可能性もある。盾が10枚も埋めてあったのでこの名が付いた。

埋葬施設は長大な割竹形木棺(わりたけがたもっかん)で、銅鏡、玉類、短甲衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、鉄製の刀剣(やじり)、筒型銅器碧玉(へきぎょくせいくしろ)、竹(たけくし)、盾10枚などが出土した。また、前方部から、鉄製の刀、剣、矛(ほこ)が61本もまとまって出土した。
珠金塚(しゅきんづか)

方墳で、盾塚の西側にある。墳頂には、組合せ木棺を納めた二つの粘土槨があった。一方の棺には、銅鏡類、短甲衝角付冑、鉄製刀剣、竹櫛、盾などがあり、もう一方の棺にも銅鏡、玉類、短甲、鉄製刀剣などがあった。


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