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銀王銀 一
二
銀 三
四
馬 五
六
七
八
九
▲持ち駒 銀
詰将棋の例[注 1]
詰将棋(つめしょうぎ)とは、将棋のルールを用いたパズル。詰め将棋と表記されることもある。
駒が配置された将棋の局面から王手の連続で相手の玉将[注 2]を詰めるパズルで、元は指し将棋(通常の意味での将棋。詰将棋と区別する上でこう呼称する)の終盤力を磨くための練習問題という位置づけであったと思われるが、現在ではパズルとして、指し将棋から独立した一つの分野となっている。造物、詰物、図式ともいう。 通常の指し将棋と目的が同じであるため、実戦的な詰将棋は指し将棋の終盤力の養成に役立つと一般的に考えられている。詰将棋として独立した作品になると、升田幸三が「詰将棋の妙味はハッとする鮮やかさに尽きる」と述べているように、一般的な常識や価値観と異なる、捨て駒や、不利に思われる不成、利きの少ない限定打、などの意表をついた手筋や構想があり、それらを解く、もしくは創作することが楽しみとなる。 最短のものは1手詰、以下3手詰、5手詰、7手詰…、と奇数の手数となる。これは、先手(攻め方)から指し始めて先手の指し手で詰め上がるためである[注 3]。数手から十数手までの比較的平易なものが新聞紙上やテレビ、将棋専門誌などに紹介される一方、より難解で手数の長い作品を取り扱う書籍や専門雑誌も存在している。代表的な専門雑誌としては『詰将棋パラダイス』があり、将棋専門誌である『将棋世界』と『近代将棋』も詰将棋の投稿コーナーを連載している。『詰将棋パラダイス』は「看寿賞」を、『近代将棋』は「塚田賞」を設け、優れていると判断された作品に賞を贈っている。 現代の代表的な詰将棋作家に黒川一郎、七條兼三、駒場和男、大塚敏男、山田修司、北原義治、柏川悦夫、岡田敏、酒井克彦、田中至、上田吉一、若島正、山本昭一、山崎隆、森長宏明、柳田明、伊藤正、藤本和、添川公司、橋本孝治、相馬康幸、田島秀男、桑原辰雄、岡村孝雄、山路大輔などがいる。 また、プロ棋士が詰将棋を創ることも多いが、出版物の多くは終盤力を鍛錬するための、実戦的なトレーニングを目的としたものが主流である。一方で、前述の詰将棋作家のように個性的な作品を創作する棋士も少なくない。創作を得意とするプロ棋士(物故、引退も含む)では塚田正夫や二上達也を始め、内藤國雄、谷川浩司、伊藤果、中田章道らが有名である。他に原田泰夫、高柳敏夫、清野静男、五十嵐豊一、熊谷達人、北村昌男、丸田祐三、勝浦修、加藤一二三、加藤博二、佐藤庄平、佐藤大五郎、大内延介、桐山清澄、関根茂、中原誠、小林健二、高橋道雄、浦野真彦、森信雄、北浜健介、佐藤康光、三浦弘行、船江恒平、斎藤慎太郎、藤井聡太らがおり、かつて『将棋世界』では全棋士出題の詰将棋作品集などが付録となっていた。また、新聞や雑誌に寄稿したり、サインの横に自作詰将棋を記述することも多い。女流棋士では早水千紗などが得意としている。 2011年以降は将棋初心者やライト層向けに作られた、5手詰以下の詰将棋本が多数刊行されるようになっている。 チェスにもプロブレムと呼ばれる類似したパズル問題が存在する。ただし、チェックは連続しなくてよい。チェスのプロブレムは、実戦で起こり得る局面でなければならないが、詰将棋の場合は(部分図か否かに限らず)この制約はない。 詰める側を攻方(または詰方)とよび、詰められる側を玉方(または受方)とよぶ。 問題作成上の制限として次のようなものがある。以下のルールが適用されない詰将棋は、「実戦詰将棋」と呼ばれる。 987654321 現存する最古の詰将棋は慶長年間(1596-1615)に出版された初代大橋宗桂(1555-1634)の『象戯造物』(俗称『象戯力草』)である。この書は詰将棋が五十番掲載されているが、将棋の終盤の考え方を教えるものであり、現在の詰将棋のように最短手順ではなかったり、終局時に攻め方の持ち駒が余る問題もあった。宗桂は『象戯造物』を将棋所任命に応じるとともに、慶長七年(1602年)に山科言経を通じ後陽成天皇に献上したことが知られる。これは元和二年(1616年)に八十番に増補して『象戯馬法并作物』として再刊されている。宗桂の没後の元禄十六年(1703年)には、さらに百番まで増補した『術知象戯力草宗桂指南抄』が出版された。『象戯作物』は宗桂の跋のある美濃大版本と、跋とともに序文が付いていない美濃中版本があるとされ、跋付きのものは所在が不明であるが、後者は古棋書収集家が所有していて所在確認されている。初代宗桂作の図式にはこの他に元禄五年(1692年)に『根元宗桂象戯秘伝鈔』と『根元宗桂象棋秘伝』が、寛永八年(1631年)には『将棋経』が発表され、これらは八十番掲載されている。天明九年(1789年)には、百番の問が発表されている『術知象戯力草』が知られている。 宗桂以来、名人襲位時に幕府に詰将棋の作品を献上することがならわしとなり(献上図式)、詰将棋は大きく発展していった。三代伊藤宗看によって享保十九年(1734年)に江戸幕府に献上された『将棋作物』(俗称『将棋無双』『詰むや詰まざるや』)と、宗看の弟でもある伊藤看寿によって宝暦五年(1755年)に献上された『将棋図式』(俗称『将棋図巧』)とが、江戸時代における詰将棋の最高峰といわれている。初代伊藤宗看は詰将棋のルールを確立した。伊藤看寿の名は、現代詰将棋の傑作に与えられる「看寿賞」に残っている。 九世名人六代大橋宗英以降、詰将棋の献上は行われなくなり、詰将棋の発展は一時停滞した。復活するのは昭和に入り、「将棋月報」が詰将棋を掲載するようになってからである。
概説
ルール
攻方が先手である。
攻方は王手の連続で相手の玉を詰ます。
攻方は持駒と、王手をしながら取った駒を使ってよい。
玉方は最善、最長手順になるように王手を回避する手を指す。
玉方は同手数の逃げ手順が複数ある場合、攻方に持ち駒を使わせる手順を正解とする。玉方も、場合によっては合駒でなく、守備駒の移動合で応手することもある(いずれにしても、詰み手数が同じ場合)。
玉方の持駒は「残り駒全部」であり、盤上の駒、攻方の持ち駒および残りの玉将を除くすべての駒を持駒とする。
玉方は使われていない駒を合駒として打つことができる。
その種類の駒がすべて使われているときは、その駒は打てない(俗に「売り切れ」という)。たとえば飛車(龍王)が盤上に2枚あれば、合駒として飛車を打つことはできない。
取られるだけで詰手順の本質に変化を生じない玉方の合駒は「無駄合」といって手数に含めない。ただし合駒によって詰みを回避できる場合、または詰手順に変化を生じる場合は、無駄合いではない。問題によっては、最終手で空き王手の場合、王手を掛けた駒と、(仮に玉方が無駄合で応手したとして)、詰みが成立する駒が異なる場合もあるが、これも同手数とする。
その他、駒の動かし方等のルールは指し将棋に準じる(攻め方の打ち歩詰め・千日手は失敗となり、玉方は行き所のない駒は打てず、双方とも二歩は打てない)。
最善の手順が一意に定まる。
作意手順(作者の意図した手順)以外の詰手順が成立する場合、「余詰」と呼び、不完全作として扱われる場合がある。
攻方、玉方双方とも最善の手順を進めた場合、最終的に攻方の持駒が1枚も残らない(「駒余り」があってはならない)。
盤上に飾り駒(その駒があってもなくても、作品の内容に影響しない無駄な駒)を配置しないのが原則。ただし、実戦型の場合は意図的に配する場合がある。
歴史△持ち駒 残り駒全部
香歩金 一
銀 飛 二
王歩歩歩歩 三
歩 四
五
歩 六
桂 七
八
九
▲持ち駒 角金桂
初代大橋宗桂『象戯造物』第1番
現存する最古の詰将棋