詭弁
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出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2012年11月)


信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2010年7月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2010年7月)


詭弁(詭辯、きべん、: σοφιστικ?)とは、主に説得を目的として、命題証明の際に実際には誤っている論理の展開が用いられている「推論」である。誤っていることを正しいと思わせるように仕向けた議論。奇弁、危弁とも。意図的ではない「誤謬」とは異なる概念である。
意味

日本語で日常的に使われる「詭弁」とは、「故意に行われる虚偽の議論」[1]「道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論、論理学で外見・形式をもっともらしく見せかけた虚偽の論法」[2]「実質において論理上虚偽あるいは誤謬でありながら、故意に誤りのある論理展開を用いて、間違った命題を正しいかのように装い、思考の混乱や欺瞞を目的としておこなう謬論」を指す[3]。発言者の「欺く意志」があってこその「詭弁」であり、必ずしも意図的にではなく導かれる誤謬とは区別される。日本では「詭」が漢字制限により当用漢字常用漢字に含まれないため、新聞などでは奇弁、論理学などでは危弁と書かれることもある。

英語では sophism 「詭弁、こじつけ、詭弁法」[4]「詭弁、こじつけ、へ理屈、詭弁法」[5]を指す。
解説

詭弁には、論理展開が明らかに誤っている場合もあれば一見正しいように見える場合もある。そして論理展開が正しいように見える場合、論理的には違反しており、誤った結論でも説得力が増してしまう。上記の現象は不完全な数学的帰納法による、この記事においても以降で解説される早まった一般化前後即因果の誤謬によって起こりやすい。協働関係や社会的合意においては、論理的推論の整合性よりも話者が対象とする聞き手や大衆に対しての言説上の説得(説明)力(ヒューリスティクスを用いた限定合理性への対応)がしばしば効果的であり、このため、説得交渉プロパガンダマインドコントロールのテクニックとして用いられることがある。
歴史

「詭弁」という語は、『史記』に見ることができる。「屈原賈生列伝」で「設詭辯於懐王之寵姫鄭袖(詭弁を懐王の寵姫鄭袖に設く)」との用例がある[6]。「五宗世家」で「好法律持詭辯以中人(法律を好み詭弁を持して、以て人に中つ)」との用例があり[7]、『史記索隠』は詭弁の語義について「詭誑ノ弁」(あざむき、たぶらかす言葉)と注している。中国の諸子百家のうち「詭弁」を学問に発展させたのが恵施公孫竜などの名家である[8]

古代ギリシャの時代においても詭弁が飛躍的に発展し後世の論理学の発展へとつながっていった[9]。この時代は、弁舌に長じた哲学者達を多く輩出し、日本語で「詭弁家」とも称されるソフィストを生んだ。ゼノンやプロタゴラスは紀元前400年以前のギリシアアテナイなどで活躍し、哲学の分類では名家やソフィストなどを含めて詭弁学派と呼ぶことがある。

ピタゴラスは、4と10という数字に神秘性を感じており、弟子のひとりに、両手の指を、1本、2本、3本、4本と回数ごとに1本ずつ多く曲げさせてゆき、最後に4本曲げたところで10本すべての指が曲がると「お前が4だと思ったのは実は10だった」と説いたというエピソードがある。これは典型的な詭弁とされる[10]

ギリシャ、ローマの時代では、為政者、立候補者が高い地位につくために、人心を得る演説をする必要があった。そのためには、正当な弁論術よりも、詭弁、強弁、争論が有用であったため、ソフィストが台頭することとなった[11]
古典的な詭弁

古典的な詭弁の例として、古代中国の思想家公孫竜による「堅白異同」[3]や「白馬は馬に非ず」がある。公孫竜の「白馬非馬」の論法を以下に示す(詳細は公孫竜を参照)。これは論点のすり替え、連続性の虚偽と誤った二分法を含んでいる。「白馬」という概念は、「白」という色についての概念と「馬」という形についての概念とが合わさったものであるから、もはや純粋な形の概念である「馬」とは異なる。したがって白馬は馬ではない。

この種の詭弁は単に言説上の遊びとして軽んじられることがあるが、法(文字)による社会規範を重視する社会では重要であり、例えば「国民は納税の義務を負う」の場合、国民の定義があいまいであれば法の合意や実効力は極端に阻害される。公孫竜の話題では、例えば馬1頭あたりに税を課する場合、白馬は馬ではないとの論証に対して馬の定義があいまいであれば、その論証は有効である可能性がある[注 1]。奴隷や小作、未成年や女性は「人頭」ではないとすれば人頭税の及ぶ範囲は極端に制限されるかもしれない。

前件否定の虚偽 (denying the antecedent)詳細は「前件否定」を参照

A「自分がされて嫌なことは、人にもするな(黄金律)」

B「なら自分がされて嫌でなければ、人にしても良いんだな」

Aの発言に対するBの返答は「XならばYである。故にXでなければYでない」という形式の論理であり、これは論理学で前件否定の虚偽と呼ばれる。数学でいうと「自分がされて嫌なこと」は「人にしてはいけないこと」であるための十分条件である。命題から論証なく「」を導き、それを用いる論証。このタイプの推論は、XとYが論理的に同値の時のみ成立する為、恒真命題ではない。

なおこの虚偽は、仮言的三段論法においても適用される。「もしAがBならば、AはCである。しかしAはBでない。故にAはCでない」は、前件否定の虚偽となる。「AがBならば」という仮定をX、「AはCである」という結論をYと置けば、「XならYである。Xでない。故にYでもない」となり、前件の否定を前提とする論理となるからである。
後件肯定の虚偽 (affirming the consequent)詳細は「後件肯定」を参照

A「対象について無知ならば人は恐怖を感じる。つまり、怖がりな奴は無知なんだよ」

Aの発言は「XならばYである。故にYであればXである」という形式の論理であり、これは論理学で後件肯定の虚偽と呼ばれる。命題から論証なく「」を導き、それを用いる論証。このタイプの推論も、前件否定の虚偽と同じように、XとYが論理的に同値の時にしか成立しないので、恒真命題ではない。Aの発言は、「シャチは哺乳類である。故に哺乳類はシャチである」という推論と同じ論理構造である。仮に「無知だから怖がる」という前提が真であったとしても、その前提から「怖がりな人は無知である」と結論することは論理的に誤りである。怖がりな人は無知であるかもしれないし、無知ではないかもしれないからである。(逆は必ずしも真ならず)
媒概念不周延の虚偽 (fallacy of the undistributed middle)

A「頭の良い人間は皆、読書家だ。そして私もまた、よく本を読む。だから私は頭が良い」

Aの発言は「XはYである。ZもYである。故にZはXである」という形式の三段論法で、これは論理学で媒概念不周延の虚偽と呼ばれる。このタイプの推論は、Z⊆X⊆Y(⊆:部分集合)でない限り成立しないので、恒真命題ではない。Aの発言は「カラスは生物である。スズメバチも生物である。故にスズメバチはカラスである(あるいはカラスはスズメバチである)」という発言と論理構造が等しい。また、Aの発言について、「頭の良い人間は皆、読書家だ」が真であったとしても、「読書家は頭がいい」はそれの逆となるため、必ずしも真であるとは限らない。
早まった一般化 (hasty generalization)詳細は「早まった一般化」を参照

A「私が今まで付き合った4人の男は、皆私に暴力を振るった。男というものは暴力を好む生き物なのだ」

Aの発言は、少ない例から普遍的な結論を導こうとしており、早まった一般化となる[注 2]


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