詔勅
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「おことば」を述べる天皇
2019年(令和元年)、即位礼正殿の儀

詔勅(しょうちょく)は、大和言葉で「みことのり」といい、天皇の御言(みこと)を宣る(のる)という意味である[1]明治維新後は綸言(天皇の言葉)を通じて詔勅と称した[2]昭和戦中期には勅旨(天皇の意思)を総じて詔勅と称した[3]天皇の叡慮を伝える詔書勅書勅語の総称である[4]

昭和戦前期の憲法学では、天皇の直接の叡慮(意思)を外部に表示したものを詔勅と呼んだ。天皇の大権が外部に表示される形式のなかでも詔勅が最も重要なものとされた。文書による詔勅には天皇が親署した後、天皇の御璽国璽を押印した。口頭による詔勅もあり、これを勅語といった[5]
上古の詔勅討幕の密勅

律令制以前、古くから天皇の言葉を指して、万葉仮名で美古登(みこと)と称した。これは御言という意味であった。また意富美古登(おほみこと)とも称した。これは大御言という意味であった[6]。天皇の言葉を臣民に宣布するとき、これを美古登能利(みことのり)と称した。これは 命(みこと)を宣る(のる)という意味であった。そのうち神事にかかるものを能利登許登(のりとごと)と称した。宣祝言という意味であった。これを縮めて能利登(のりと)ともいい祝詞の字を充てた[7]

古代中国における「詔」や「勅」の語義は次のようであった。もともと「詔」の字は上から下に命じるというような広い意味で用いられていたが、秦漢時代以降に皇帝専用となったものであり、主として「教え告げる」という意味であった。これに対し「勅」の字には戒めるとか正すといったニュアンスがあり、皇帝が臣下を責めたり罰したりすることを意味する勅勘や勅譴などの熟語があるが、詔の字にはそのようなニュアンスや熟語はなかった。また、勅裁、勅断、勅選、勅撰、勅諭、勅許、勅問、勅答、勅諚という熟語には責めるという意味はないものの、皇帝個人の意思による判断、選択、教諭を、特定の臣下に下すという意味合いがあった。一方、詔の字は臣下の全体に対する皇帝の公的な側面が強く出ており、私的な側面は弱かった[8]

古代日本における「詔」「勅」の字の用例を古事記日本書紀に見ると、中国における語義と関係なしに、編者が巻ごとに一方の文字のみを用いる傾向があった。たとえば記紀神話が記された神代巻を見ると、日本書紀1巻2巻では、詔が0件、勅が42件であり、全て勅であったが、古事記上巻ではこれと全く対照的に、詔が92件、勅が0件であり、全て詔であった。古事記の本文は全体を通じて勅の字の用例は一例しかなかった[8]
律令制での詔勅

日本においての律令制を模倣して詔勅という名称が生まれた[6]文武天皇の定めた大宝令が詔勅の制の初見であった[1]の公的注釈である令義解は「詔書・勅旨、これ同じく綸言なり。臨時の大事を詔となし、尋常を小事を勅となす」として、事の大小により詔と勅とを区別したが、後世の詔・勅の文字の用例は必ずしも令義解の定義に準拠していなかった[9]。臨時の大事に詔と称し尋常の小事に勅と称するといっても、臨時にも小事があり、尋常にも大事があって、必ずしも事の大小で区分できなかったからである。およそ儀式を整え百官を集めて宣明するものを詔と為し、そうでないものを勅と為した。外国使への伝命、改元改銭大赦神社山陵への告文、立皇后立太子任大臣などを詔書と為し、それ以外を勅旨と為した。詔勅を美古登能理(ミコトノリ)と称した。これは「大命(おほミコト)を宣聞す(ノリきかす)」という意味であった。宣命や宣旨の名称もこのとき始まった[6]

職員令に「内記掌造詔勅」とあり、詔勅の文案を作るのは中務省所属の内記の職掌であった。『職原抄』によれば、儒門の中で文筆に堪える者を内記に任じ、詔勅宣命を起草させたという。また、『禁秘御抄』によれば、内記が不在の時は弁官が天皇に奏上したという[10]

詔勅の文案を審査しこれに署名するのは中務卿輔の職掌、詔勅を起草するのは内記の職掌、詔勅を勘正するのは外記の職掌とされた[11]。これらは最も機密の官であり、宮衛令に「凡詔勅未宣行者非官不得輙看」(およそ未だ宣行していない詔勅は担当官以外が軽々しく見てはならない)と定められた[7]

諸国に施行すべき詔勅は太政官符の中に全文引用して行下した。これを謄詔勅という。謄詔勅は在京諸司に誥するより筆写にかかる労力が多いため、文案の長短にしたがって歩合給を与えた。また、職制律にその筆写を遅怠した者やこれを誤写した者などの罪名を載せた[7]

頒布する詔勅のうち百姓に関するものは、京職国司から里長・坊長を経て百姓に宣示した[12]公式令は、里長や坊長が部内を巡歴し百姓に宣示して人ごとに暁悉(通知)させると定めた[7]
詔書

詔文の書式は以下のようであった。外国使に大事を宣する詔書は冒頭に「明神御宇日本天皇勅旨」と掲げた。これは「明神あきつみかみと) 宇(あめのした) 御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが) 勅旨(おほみことらま)」と訓じる[6]。外国使に中事を宣する場合には「明神御宇天皇詔旨」といった[13]。朝廷の大事である、立坊、立后、元日に朝賀を受ける場合には詔書の初めに「明神御大八洲天皇詔旨」という文言を掲げた。これは「明神(あきつみかみと) 大八洲(おほやしまぐに)御(しろしめす) 日本(やまとの) 天皇(すめらが) 詔旨(おほみことらま)」と訓じた。中事には「天皇詔旨」と掲げ、小事には単に「詔旨」と掲げるにとどめた。詔文の終わりには「咸聞」という文言を置いた。これは「咸(もろもろ)聞(きこしめさへ)」と訓じた[10]

詔書を施行する手順はおよそ以下のとおりであった[10]
まず内記が天皇の意を承けて詔文を起草する。詔文の後は改行して年月を書き、日を記さないでおく。

草案を箱に入れて内記みずから御所に参じて天皇に奏上する。

内裏式』によれば、参議以上か内侍に令して御所に進めるというが、これは他の諸書に見えない異説である。


日が記されていない草案に、天皇みずから日を書き入れる。これを御画日という。

御画日を終えたあと、中務省の卿(一等官)か輔(二等官)一人を召してこれを給う。

北山抄』によれば、この時もし輔が参じなければ丞(三等官)に給い、丞以上が参じなければ録(四等官)を召すことはせずに、これを外記に給って伝令させるというが、このことは稀有の例である。


御画日のある文書は、中務省において、卿がこれを受けて大輔に宣し、大輔がこれを奉じて少輔に付し、これを留めて案と為し、少輔が別に一通を書き写す。

令集解』によれば、書写に中務丞以下は参与できないという。


写した書面上、年月日の次に三行にわたって「中務卿(位)臣(姓名)宣」「中務大輔(位)臣(姓名)奉」「中務少輔(位)臣(姓名)行」と署名する。

これは詔書の場合であり、勅書の場合はこれと違って、卿にも輔にも臣の字を書かず、輔は中務の二字を省き、下に宣奉行を注記しない。

卿がもし不在であれば大輔の名の下に「宣」と書き、少輔の名の下に「奉行」と書く。大輔も不在であれば少輔の名の下に「宣奉行」と併せ書く。

令義解には、少輔すらも不在であれば丞と録がこれに準ずることができるされている。しかし、『令集解』によれば丞以下は参与し得ずといい、『北山抄』によれば丞以上が参じなければ録を召さずというから、実際には録が連署することはなかったようである。


中務省では宣奉行を署した後、これに中務省印を押し、太政官に送る。

『西宮記』や『北山抄』に「省進外記」とあり、中務省から太政官の外記に進ずるという。


太政官において、外記は中務より送られて来た詔書案の後に太政大臣以下大納言以上の「(官位)臣(姓名)」を記入し大納言に進す。

大納言は大臣以下の署名を取り、内侍を経由してこれを天皇に覆奏する。

北山抄』および『小野宮年中行事』によれば、大納言が不在であれば中納言が代わって覆奏し、さらに中納言も不在であれば大臣が覆奏するという。

北山抄』によれば内侍が不在のときは蔵人を経由して行うという。


詔書には、年月日の次の行に天皇みずから「可」の字を書き入れる。これを御画可と称す。

論奏の批准には「聞」の字を書き入れる。


御画可のある詔書は、大納言がこれを受けて外記に授ける。

外記は詔書を太政官に留めて案と為し、更に謄写して天下布告する。以上[10]


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