証如(證如[1])
永正13年11月20日 - 天文23年8月13日
1516年12月23日 - 1554年9月19日
1516年12月13日 - 1554年9月9日
上段・旧暦 中段・グレゴリオ暦換算[2] 下段・ユリウス暦
証如影像
幼名光仙丸
法名證如
院号信受院
諱光ヘ
尊称証如上人
宗旨浄土真宗
宗派本願寺派(後の浄土真宗本願寺派、後の真宗大谷派)
寺院山科本願寺、大坂本願寺
師実如、円如
弟子顕如
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証如(しょうにょ、證如[1])[注釈 1]は、戦国時代の浄土真宗の僧。浄土真宗本願寺派第10世宗主・真宗大谷派第10代門首。山科本願寺、大坂本願寺住職。諱は光教。院号は信受院。法印権僧正。父は円如。本願寺第8世蓮如の曾孫。九条尚経の猶子。正室は庭田重親の娘・顕能尼[注釈 2]。第11世顕如は長男。 ※年齢は、数え年。日付は文献との整合を保つため、いずれも旧暦(宣明暦)表示を用いる(生歿年月日を除く)。 永正13年11月20日(1516年12月23日[2] )、誕生。父は遍増院円如[注釈 3]。母は慶寿院鎮永尼[注釈 4]。童名は光養丸[3]。 大永5年(1525年)、父方の祖父である本願寺第9世宗主・実如の死去により、10歳で継承し、本願寺第10世宗主となる。実如の弟で証如の母方の祖父である蓮淳の後見を受ける[4]。
生涯
享禄4年(1531年)、本願寺教団内部で対立(後の山科本願寺の戦いまで含めて享禄・天文の乱と呼ぶ)が起こるが、証如はこれを抑えて法主の指導力強化に努めた。この享禄の錯乱とも呼ばれる本願寺の内紛によって、蓮如から加賀支配の指導的地位を任せられていた松岡寺蓮綱、本泉寺蓮悟などの一門四ヶ寺は没落し、証如の影響力は加賀にも及ぶこととなった[7]。
翌享禄5年(1532年)5月、畠山義堯と三好元長が木沢長政を攻撃。畿内の有力者である細川晴元は木沢長政を支援するため、同年6月に証如へ援軍を要請した[8]。晴元からの要請を受けた証如は、蓮淳の意向もあって門徒を動員し、自身も山科本願寺から摂津大坂に移動した[9][8]。その後、本願寺勢は畠山義堯を滅ぼし、河内国で滞陣中の三好元長を襲撃する[10]。更に三好元長を堺まで追い立てて敗死させたものの、蜂起した門徒は暴走を続けて大和国へ乱入し、興福寺の塔頭などへも襲撃を行った[11]。本願寺勢と晴元勢との戦闘も各地で発生し[12]、目的以上の破壊力を保持した一向一揆を恐れた晴元は、7月に本願寺と決別して京都の日蓮宗教団や六角定頼、室町幕府将軍の足利義晴と手を結び、証如と敵対した[12][11]。証如は室町幕府から謀反人と認定され、天文に改元後の8月24日には当時の本願寺の本拠地であった山科本願寺が六角勢と法華宗徒によって攻撃され焼亡した(山科本願寺の戦い)[12][13]。