この項目では、周代の諸侯国について説明しています。明代の政治人物については「許国
(中国語版)」をご覧ください。許紀元前1046年 - 紀元前375年[注 3]
国姓姜姓[4]
爵位男[4]
国都1. 許[注 4][2]
河南省許昌市建安区
2. 葉[2][5]
河南省平頂山市葉県南
3. 夷[注 5][2][7]
安徽省亳州市?城区南東
4. 析[注 6][2][8]
河南省南陽市西峡県
5. 葉[2]
河南省平頂山市葉県南
6. 容城[2][9]
河南省平頂山市魯山県南
分封者周の成王
始祖許文叔[10]
最後の君主許伯彪
滅亡原因楚により滅亡[注 7]
史書の記載『春秋左氏伝』(始見は隠公十一年)
周朝諸侯国一覧
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許(きょ、中国語: ?国、?音: X?)は、西周及び春秋時代の諸侯国[12]。爵位は男爵[4]。国君は姜姓[2][4]。建国の君主は許文叔で[10]、許伯彪が最後の君主である。許については歴代君主以外の情報は余りわかっていない[2]。鄭によって滅亡したが[11]、楚によって復活した。楚が国君を廃したことで滅亡した。 許の地理位置は、数度変わっている。最初は現在の河南省許昌市建安区であった。 春秋時代、鄭や楚等の国の逼迫を受けて、紀元前576年、許の霊公は「葉」(現在の河南省平頂山市葉県南)に南遷した[2][5]。その後、許は楚の附庸国となった。 紀元前538年、許の悼公は「夷」(後の楚の城父邑、現在の安徽省亳州市?城区南東)に遷都した[2][7]紀元前534年、「析」(後の楚の白羽邑、現在の河南省南陽市西峡県)に遷都した[2][8]。紀元前529年、葉に再び遷都した[2]。紀元前506年、「容城」(現在の河南省平頂山市魯山県南)に遷都した[2][9]。そして、戦国時代初期に楚によって滅亡した。 史書の記載によると、許の国君は斉と祖先が同一で、伯夷の末裔と言われている[4]。 西周が殷を滅ぼした後に、周の成王は諸侯を大封した。その中で、殷の旧地は姫姓の諸侯国と姜姓の諸侯国に分封された。許国は周朝の分封を受けた姜姓の諸侯国の一国である。始祖は太岳(伯夷)の胤(継嗣)の許文叔で、武王克殷時に大功を挙げて受封された[13]。 春秋時代、鄭や楚等の諸侯国が非常に強大になり、許国は強国の侵略を受けた。許は弱小で抵抗することができなかったので、友好を求めた。 紀元前654年、楚は許を攻め打った。許は大敗した。そのため「肉袒謝罪」した。楚は満足して、兵を退去させた。 楚の成王の時期、再次許に攻め打った。許の国君は再び「肉袒謝罪」して、和解を請求した。この状況下、許国は楚と鄭の興亡を避けるためには遷都のみが可能であった。 紀元前576年、許の霊公は「葉」(現在の河南省平頂山市葉県南)に南遷した[2]。紀元前538年、許の悼公は「夷」(後の楚の城父邑、現在の安徽省亳州市?城区南東)に遷都した[2]。 紀元前534年、「析」(後の楚の白羽邑、現在の河南省南陽市西峡県)に遷都した[2]。紀元前529年、葉に再び遷都した[2]。紀元前506年、「容城」(現在の河南省平頂山市魯山県南)に遷都した[2]。その後、許は楚の附庸国となった。
地理
歴史
起源
殷周時代
春秋戦国時代
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