許?
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています(詳細)。

許?
代の書物に描かれた許?

武衛将軍・牟郷侯
出生生年不詳
豫州沛国?県[1]
?音X? Ch?
仲康
諡号壮侯
別名虎痴(綽名)
主君曹操曹丕曹叡
テンプレートを表示

許 ?(きょ ちょ、生没年不明)は、中国後漢末期から三国時代の武将。『三国志志「二李臧文呂許典二?閻伝」に伝がある。は仲康。兄は許定。子は許儀。孫は許綜
生涯
怪力の傑

身長8尺(およそ184cm)で腰周りが10囲(およそ120cm)あり、容貌が雄々しく毅然としており、武勇と力量も人並み外れていた[1]

後漢末、許?は若者や一族数千家を糾合し、全員で砦を固めて賊の侵入を防いでいた。汝南の喝破の賊一万人余りが侵攻して来ると、多勢に無勢で疲労し、武器や矢弾も尽き果てるまで追い込まれたが、許?は城中の男女に湯呑みや枡ほどの大きさの石を用意させ、投げつけて抵抗させた。食糧が乏しくなると許?は一計を案じ、賊と和睦を結ぶ振りをして牛と食糧を交換させた。賊が来て牛を引き取ったが、牛はすぐさま逃げ帰って来てしまった。このため許?が、片手で牛の尾を掴んで引き摺り、牛を賊の元へ返そうとすると、賊は驚き牛も引き取らずに逃げ帰ってしまった。この噂は豫州一帯に広がり、聞いたものはみな許?を恐れるようになったという[2]
曹操の親衛へ

曹操が・汝の地方を支配すると、許?は軍勢を挙げて曹操に帰服した。曹操は許?の勇壮な雰囲気に「我が樊?である」と言った。その日のうちに許?は都尉となり、宿衛に入った。許?に従っていた侠客はみな虎士(近衛兵)となった[3]

張?征伐に従軍して先鋒となり、校尉に昇任した[4]

袁紹との官渡の戦いにも従軍した。従士の徐他らは以前から謀叛を企てていたが、曹操の傍で侍衛している許?を恐れ事を起こすことができなかった。このため、徐他らが許?の休みの日に行動を起こしたが、許?は宿舎まで来たところで胸騒ぎを起こし、すぐに引き返した。徐他らはそうとも知らず曹操の帳に入り、許?を見て大いに驚いた。許?は、徐他らの顔色が変わったのを見て謀叛を悟り、すぐさま彼らを打ち殺した。このことで曹操はさらに許?を信愛し、出入りにも同行させて左右から離さないようになった[5]

?の包囲戦に従軍し、戦功を立てて関内侯に封ぜられた[6]
勇猛さと栄達馬超との一騎討ちに臨む許?(左)

韓遂馬超との潼関の戦いでは、曹操は黄河の北岸へ渡る前に兵を先に渡河させた。しかし、曹操が許?や親衛隊百人余りと共に南岸に留まって背後を遮断すると、馬超は兵1万人余りを率いて来攻し、雨のように矢を降り注がせた。許?は曹操を支えて船に乗せたが、兵も挙って乗ろうとしたため、船が重さで沈没しそうになった。そこで許?は船によじ登ろうとする者を斬り、左手で馬の鞍を掲げて曹操を矢から守った。さらに、船頭が流れ矢に当たって死ぬと自ら右手で船を漕ぎ、曹操を渡河させた[7]

その後、戦局が膠着したため両者は会談の場をもつことになった。曹操は韓遂・馬超らと単騎で語らうこととなり、従騎として許?だけを連れて行った。馬超は武術の腕を頼りに曹操を殺そうと考えていたが、以前から許?の勇猛さと武力を聞いていたため、従騎が許?ではないかと疑った。馬超が曹操に対し「公の下には虎侯という者がいると聞いているが」と問いかけると、曹操は無言で後ろを指した。このため許?が馬超を睨みつけると、馬超は動くことができずに結局引き返した。数日後、馬超軍と戦った時、曹操は馬超らを大いに破った。許?は自ら敵の首級を挙げ、武衛中郎将に昇進した。武衛という称号はこの時から始まったという[8]

曹操が魏王となった頃、曹仁荊州から戻ってきたときに宮殿の外で許?に出会った。曹仁が中に座って寛いで語ろうと誘ったが、許?は「王(曹操)は、まもなく出殿なされる」と言ってすぐ宮殿に引き返してしまった。曹仁がこのことに怒ると、ある者が許?に対し「征南将軍(曹仁)は王族の重臣なのに、謙って君をお呼びになったのだ。それなのになぜ断ったのか」と言った。これに対し許?は「彼は王族の重鎮といえども外の諸侯です。私のような内の臣下の端くれが、部屋に入ってどんなことを話せましょうか」と答えた。それを聞いた曹操は、こと更に許?を信愛し、中堅将軍に昇進させた[9]

曹操が亡くなると、許?は号泣して血を吐いたという[10]

曹丕(文帝)が即位すると、万歳亭侯に進封され、武衛将軍に転任した。中軍の宿衛禁兵を都督し、曹丕にも側近として大いに親しまれた。かつて許?が率いて虎士となった者から、後に武功によって将軍となり侯に封ぜられた者は数十人に、また都尉・校尉となった者は100人余りに上り、皆が剣術家であったといわれる[11]

曹叡(明帝)が即位すると、牟郷侯に進封して領邑700戸となり、一子が関内侯に封ぜられた。やがて死去し、壮侯と諡された。子の許儀が後を嗣いだ。太和年間に再び許?の忠孝が評価され、詔勅により子孫二人が関内侯に封ぜられた[12]

陳寿は、許?と典韋が曹操の左右を警護したことは、漢の樊?に準えると評している[13]

裴松之は、徐他の謀叛に許?が胸騒ぎを起こしたのは、漢の金日?と同じく忠誠の極致があったためで、更に潼関の危難も許?がいなければ救済できなかったことであり、その功烈は典韋に勝るものがあると述べている。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef