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ニックネーム.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
カイザー(ラジオ「バナナムーン」での愛称)
ホタテ人間
別名義ティタラ(音楽ユニット「T-STYLE」での名義)
生年月日 (1973-04-23) 1973年4月23日(51歳)
出身地埼玉県秩父郡皆野町
血液型O型[1]
身長175 cm[1]
言語日本語
方言首都圏方言
秩父弁
最終学歴埼玉県立秩父農工高等学校
(現・埼玉県立秩父農工科学高等学校)
出身渡辺正行の付き人
コンビ名バナナマン
相方日村勇紀
芸風コント(ボケ)
立ち位置左(たまに右)
事務所ホリプロコム
活動時期1994年 -
同期ロンドンブーツ1号2号
渡部建(アンジャッシュ)
飯塚悟志(東京03)
ペナルティ
小籔千豊
など
現在の代表番組ノンストップ!
クレイジージャーニー
クイズ!オンリー1
オモテガール裏ガール
過去の代表番組Asian Ace
?世界にひとつ?ミラクルレシピ!
できた できた できた
クレイジージャーニー
探シタラTV
他の活動俳優
声優
司会者
配偶者既婚(1999年 - )
公式サイト設楽統のなんでもいい旅オフィシャルブログ(ブログ)
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設楽 統(したら おさむ、1973年〈昭和48年〉4月23日 - )は[1]、日本のお笑いタレント、俳優、声優、司会者。お笑いコンビ・バナナマンのボケ(基本的にはボケとツッコミは決めていないため、ツッコミにも回る)、ネタ作り担当。相方は日村勇紀。
埼玉県秩父郡皆野町出身。ホリプロコム所属。身長175 cm、体重65 kg[2]、血液型O型。既婚。西武鉄道OB(後述)。 1973年4月23日、埼玉県秩父郡皆野町に生まれる[3]。家族構成は代々秩父に居住していた父と福岡県久留米市出身の母(旧姓:江頭)[4]、6歳上の兄と3歳上の姉がいる。 1989年3月、皆野町立皆野中学校卒業。中学では生徒会長、野球部のキャプテンを務めた。生徒会長の言葉を楽しみにしていた。 1992年3月に埼玉県立秩父農工高等学校機械科卒業後、西武グループの西武長瀞ホテル支配人だった父親の縁故採用で[5]、翌月西武鉄道に就職[5]。同社池袋線小手指駅で駅員として半年間ほど勤務していた。駅員時代は「白線の内側で“伏せて”お待ちください」など、ギャグや小ネタを交えたアナウンスをしたこともあったが、それでも先輩たちは怒ることなく、むしろウケが良く、可愛がられていたという[5]。また、バラエティ番組『バナナマンのせっかくグルメ!!』(TBS系)では、駅員時代の設楽を知る女性が登場。設楽は『イケメン駅員』として学生の間で人気だったことを明かしている。 その後、カラオケ店、酒屋の配達など[6]、半年間のフリーター期間を経て、お笑い芸人を目指し父親の友人で制作会社勤務の人の紹介で、渡辺正行の付き人として芸能界に入る[7]。渡辺正行の付き人時代には、渡されたお札の細かい釣銭を貯めて革ジャンを購入した[8]。 1993年10月、知人から「4人でお笑いをやろう」と誘われ、新宿アルタ前に集合。そこで現在の相方である日村勇紀と出会う。設楽、日村、西秋元喜ともう1人で4人組のお笑いグループを結成するが、2回稽古しただけでこのグループを見限り、4人組から設楽と日村が脱退する形で現在のバナナマンが結成された[5]。 1999年4月23日、バイト先で知り合い19歳の時から交際していた一般人の女性と結婚[9]。ちなみに結婚の動機は、設楽が「風呂のある家に住みたい」「二人で住めば家賃を折半できる」として彼女に同居を持ちかけたところ、彼女が「じゃあちゃんとしないと」と答えたため[10]。貧乏だった為、当時は貯金が数千円しかなかったと語っている。現在、娘が居る[11]。 2006年、テレビ朝日『虎の門』の企画「いとうせいこうナイト 話術王決定戦」の第3回チャンピオンに選ばれる。また、相方の日村も第2回話術王でチャンピオンとなっており、コンビ揃っての優勝となった。 2007年3月18日12時30分頃、自らのタバコの不始末により自宅が火事の被害に遭う。番組の企画によるダイエット中でタバコの量が増えており、完全に火を消しきれていなかったタバコを灰皿の吸い殻ごとゴミ袋に捨てたことによるものだった。リビングでテレビを観ていたところ「プシュパン!」という異音が聞こえ、急いで部屋に戻ると部屋の角に火柱が上がっていた。設楽曰く「正月の神社とかにあるやつが自分の部屋にあった」とのこと。すぐに消防隊が駆けつけたため、幸いにも自分の部屋が一部屋燃えただけで全焼は回避されたものの、自宅にあった大事な写真やDVD、衣装、バッグ等のほとんどの私物はこの火事により焼失した。なお、現場検証中に燃えた携帯電話が鳴り、それはマネージャーからの電話であった。その携帯電話はしばらくそのままで使用していた[12]。また、この火災直後(約6時間後)に収録を行ったTBS『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』において、誰も火事にあった事を知らない現場で自身の火事を早速ネタにして、最初こそ心配されたが掴みにしてみせた。そして、最後のサイレントでは、上記の焼けただれた携帯電話を見せた事が決め手となり、自身初となるゲームクリア及び100万円獲得を達成した(詳細は『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円#挑戦者』内の「バナナマン」の項目も参照)。ちなみに、相方の日村はマネージャーから「大変です。設楽さんが火事です」という電話がかかってきたが、当時、多くのドッキリを仕掛けられていたため信じていなかった。しかし、イロモネア収録の際、楽屋にTシャツ・短パン姿で前髪を焦がした設楽が現れたのを見て、ようやく事実だと気づいた。尚、獲得賞金はコンビで折半せずに日村の厚意で全額設楽に渡された。 2009年11月放送の『ザ・イロモネア』の企画「ピンモネア」で、史上3人目の100万円獲得を達成。因みにバナナマンとしての記録を含めると100万円獲得を4度達成しているが、これは番組内における最多記録となっている。 2010年3月放送のフジテレビ『IPPONグランプリ 春の陣』で優勝し、年末のグランドチャンピオン大会出場権を獲得。その後2015年11月放送のIPPONグランプリでは約5年半ぶりに2度目、2018年12月放送のIPPONグランプリでは約3年ぶりに3度目の優勝を果たしている。 2012年4月2日からフジテレビで放送が開始された『ノンストップ!』のMCに就任。設楽が情報番組のMCを務めるのはこれが初めてで、帯番組も初になる。 2012年、ニホンモニターの調査による「2012タレント番組出演本数ランキング」において、出演番組数が611番組で1位となった[13]。 2017年11月24日、自身のラジオ番組『バナナマンのバナナムーンGOLD』内で、週刊文春に「4億円の豪邸を建設中」と報道されたことについて、一部を事実だと認め、35年ローンを組んだことも明かした[14]。 2021年12月1日に発表された「2021テレビ番組出演本数ランキング」(ニホンモニター)によると、約11カ月間で530本のテレビ番組に出演し、第1位となった[15]。同ランキングで第1位になるのは、2012年以来8年ぶりとなる。 2022年12月6日に発表された「2022テレビ番組出演本数ランキング」によると、約11カ月間で548本のテレビ番組に出演し、第1位となった[16]。2021年から2年連続の1位となった。 1997年から1998年にかけてテレビ朝日『土曜ワイド劇場』に端役で出演。 2008年からは連続ドラマへコンスタントに出演。主にTBSやテレビ朝日で放送するもの中心。 2010年に、『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』で映画初主演[17][18]。 2012年に相方日村の主演ドラマ『イロドリヒムラ』の最終話(第10話)で監督デビューを果たした[19]。 秩父銘仙の販売のため全国を行商していた父方の祖父は、奄美大島で大島紬を知り、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}第一次世界大戦[要出典]で化学染料の輸入が困難となった際に大島紬の染色法を参考にホルトノキによる黒色染料を考案し、「大黒エキス」の名で販売し莫大な利益を上げた[4]。一方、設楽の母方(江頭家)の曾祖父(佐賀県佐賀市出身)は、その祖父が一期生として入学した入間郡立染色講習所の所長であり、卒業後も彼の商売の助言をするなど付き合いが深かった。父方の祖父は秩父銘仙の染色で巨額の富を得るも、太平洋戦争で織物工場が軍需工場にするために軍に接収され廃業。終戦後、祖父が遠方のため葬儀に出られなかった恩師である所長の墓前に家族を連れて参ったのがきっかけで両家は家族ぐるみの付き合いとなり、その過程で統の両親は恋に落ちて結婚した[4]。なお、出身地の皆野町には、北条氏邦の家臣設楽金太夫の居館跡があり、他にも設楽氏の記録が残されている[20]。 小学生の時から野球をやっており、中学での部活動は野球部。ポジションは遊撃手で一番打者。3年生の時はキャプテンだった。キャプテンになった3年生の時には「笑いながら何球もファウルボールを打って後輩に取りに行かせていた」という証言があってこの頃から“ドS”だった[5]。 中学生の頃は生徒会長も務めていた[5]。高校生の時にはバンドブームにあやかり、楽器は弾けないためボーカルを担当。
略歴
デビュー前
お笑い芸人
俳優
人物
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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