記録映画
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「ドキュメンタリー」のその他の用法については「ドキュメンタリー (曖昧さ回避)」をご覧ください。
東京オリンピック(記録映画)の撮影車両(1964年)

ドキュメンタリー(英語: documentary film)は、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品を指す。目次

1 概説

2 ドキュメンタリーの歴史

2.1 黎明期

2.2 パイオニアたちの時代

2.3 二つの世界大戦とドキュメンタリー

2.4 人類学映画

2.5 現代のドキュメンタリー


3 ドキュメンタリーと報道の違い

4 日本以外の代表的ドキュメンタリー

5 日本の代表的ドキュメンタリー作品

6 ドキュメンタリーも対象とする映画祭・映像祭、賞

6.1 日本以外

6.2 日本


7 関連文献

8 脚注

9 関連項目

概説

記録映像、記録映画とも言われ、テレビ番組として放送する場合もある。文学におけるノンフィクションに相当し、「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された素材映像を編集してまとめた映像作品」と定義される。個別の作品については様々な手法がとられている。

一般的にドキュメンタリーは制作者の意図や主観を含まぬ事実の描写、劇映画 (Drama film) ・ドラマは創作・フィクションであると認識されているが、本質的に差はないと実務者(森達也など)に指摘されている[1]
ドキュメンタリーの歴史
黎明期

ドキュメンタリーの歴史は映画と共にはじまった。リュミエール兄弟による歴史上最初の映画『工場の出口』(1895年)は、その名の通り工場の出口にカメラを設置して、従業員らが出てくる様子をワンショットで撮影しただけのものである。続く『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1896年)では観客はスクリーンの映像を現実のものと見間違えて大騒ぎしたという。これらは上記の定義においてはドキュメンタリーである[2]。リュミエールらが撮影したその他の映像(家族で会食している場面など)も一種の記録映画と言える。

初期の映画においては世界各地の風景が盛んに撮影され、大衆に向けて興業された。これも紀行ドキュメンタリーのさきがけともいえる。

初期の映画におけるフィクション・ノンフィクションの境界は曖昧であり、のちに生まれる様々なジャンルへは未分化に状態にあった。この段階ではただ映像が映っていること、物珍しいものが映っていることに観客の関心が始終した(この流れの中で、演劇を固定カメラによって撮影した映像から劇映画が生まれていくことになる)。
パイオニアたちの時代

やがて映画という媒体の持ついくつかの可能性が明確になるなかで、記録媒体という要素を重視しながら自らの問題意識を作品に投影する意志を持った制作者が現れてきた。ドキュメンタリーの父と言われたロバート・フラハティ(アメリカ、1884年 - 1951年)やヨリス・イヴェンス(オランダ、1899年 - 1989年)、ジガ・ヴェルトフ(ソビエト、1896年 - 1954年)などである。

フラハティは代表作である『極北の怪異 (Nanook of the North) 』(1922年)を、イヌイットナヌーク一家と一年間共に生活しながら制作した。イヴェンスは当初『橋』(1928年)や『雨』(1929年)によってアヴァンギャルド映画作家としての評価を得たが、これらの映像制作はその後の一貫した記録映画作家としての活動の序章となっている。ヴェルトフは代表作『カメラを持った男』 (en:Человек с киноаппаратом) の制作などを通して、現実の徹底的な記録を至上とする記録映画主義「映画眼」を提唱し、後の記録映画作家達に影響を与え続けている。

こうした1920年代の成果をもとに1930年代に至って、イギリスの記録映画作家ポール・ローサ (Paul Rotha) 、ジョン・グリアスン (John Grierson) らが提唱した「英国ドキュメンタリー映画運動」など、映画のもつ教育効果、宣伝効果を利用して社会を変革する意図をもった映画制作が隆盛した。現代の「ドキュメンタリー」という用語はこの運動が発祥とされる。
二つの世界大戦とドキュメンタリー

こうしたドキュメンタリーの技法や技術が確立されるにともなって、映画の大衆宣伝能力が注目され、国家的なプロパガンダを目的とした作品も多くあらわれた。特に第一次世界大戦以降、総力戦を遂行可能にする施策の一つとしてプロパガンダ映画の製作が重視された。

たとえば、レニ・リーフェンシュタール(ドイツ、1902?2003)の作品『意志の勝利』(1935年)はナチスの党大会を記録した映像であるが、当時としては究めて洗練された映像作品として仕上げられており、その美的印象によって大衆をナチズムに誘導したとされる。そのため未だにドイツでは上映が禁止されている[3]

ナチス・ドイツは自らの活動について詳細に映像記録を残したが、このなかにはユダヤ人強制収容所の映像なども含まれていた。こうした、もともとはナチスの記録・宣伝用として撮られた記録映像を素材として使用し、反対にその犯罪性を告発した記録映画の代表作がアラン・レネ(フランス、1922?2014)の『夜と霧』である。
人類学映画

1930年代から、映画カメラは文化人類学のフィールドワークにも活用されるようになった。こうした映像を活用した人類学は特に映像人類学 (Visual anthropology) と呼ばれ、撮影された映像を人類学映画と呼ぶ。ここでは映像は記録者の主観的な解釈に影響される事のない絶対的な客観性をもった記録手段として捉えられている。

人類学映画は純粋に学術的記録であり、今日的な意味でのドキュメンタリーとは一線を画するが、ドキュメンタリー映画作家たちに一定の影響を与えてきたと言われる。
現代のドキュメンタリー

第二次世界大戦後、ドキュメンタリーは、産業映画・教育映画と呼ばれる分野から、新植民地主義資本主義への異議を唱えるものにいたるまで多様化し、さらにテレビジョンの登場・普及によってテレビ・ドキュメンタリーという放送を前提とした作品分野が登場した。

その中で、古典的スタイルのドキュメンタリー制作は深刻な社会的問題に連動して盛んに制作された。たとえばベトナム戦争の時代にはヨリス・イヴェンスは米軍の北爆に曝されるハノイに入り、市民の日常を撮影し て『ベトナムから遠く離れて』(1967年)や『北緯17度』(17e parallele: La guerre du peuple 1968年)を制作した。なかでも『ベトナムから遠く離れて』はクリス・マルケルジャン=リュック・ゴダールなどフランスの気鋭の映画作家たちとの共作となった。

日本人では、牛山純一がテレビドキュメンタリーとして『南ベトナム海兵大隊戦記』を制作した。日本においてはほかに『絵を描く子供たち』を制作した羽仁進水俣病を追及し続けた土本典昭三里塚闘争を描いた小川紳介、『ゆきゆきて、神軍』の原一男などが活躍した。

さらに8ミリ映画16ミリ (16 mm film) 映画、ビデオカメラなど廉価に扱える機材が普及したことで、極めて私的な世界を扱った個人映画も勃興した。たとえばジョナス・メカス (Jonas Mekas) の『リトアニアへの旅の追憶』(Reminiscences of a Journey to Lithuania 1972年)はアメリカに暮らす作者自身が生まれ故郷であるリトアニアを訪ねる様子を自らの撮影で構成した。一見ホームビデオ的な作品であるが、世界中で個人映画の記念碑的作品として支持された。


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