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記憶術(きおくじゅつ、英: mnemonic
[1], mnemonics[2], art of memory[3])とは、大量の情報を急速に長期に記憶するための技術。西洋における記憶術の歴史は古く、伝統的な修辞学の一部門(ラテン語: memoria
)として扱われていた[4]。記憶術を意味する英語: mnemonic(ニーモニック)は、古代ギリシア語: μνημονικ??(ムネーモニコス、mnemonikos、記憶)からの派生語であり、その語源はギリシア神話の記憶の女神ムネーモシュネーに由来する。紀元前6世紀ごろの、古代ギリシアのシモニデスが開祖といわれる[5]。シモニデスの手法は、紀元前1世紀のキケロに帰されるラテン語文献『ヘレンニウスへ』に記載されている。記憶術は古代ローマでも、元老院などでメモを使用しての弁論が認められていなかったなどの理由により発達した。
古代ギリシア・ローマの記憶術はその後、中世ヨーロッパに受け継がれ、主に修道士や神学者などが聖書やその他の多くの書物を記憶するために用いられた[6]。当時は紙が貴重で、印刷技術も未発達であったため、卓越した記憶力を養うことは教養人の必要条件であった。ルネサンス期には、大航海時代や博物学の進展による「情報爆発」を背景に記憶術の需要が高まり[7][8]、ライムンドゥス・ルルスやジョルダーノ・ブルーノによって記憶術が深化された[9]。またマテオ・リッチが『西国記法』を著し中国に西洋の記憶術を伝えた[10][11]。
ルネサンス期の後、記憶術は衰退するが、1960年代ヴァールブルク研究所のフランセス・イエイツやパオロ・ロッシによってその歴史が再発見された[12][9]。 体の部位をもって、数に置き換えて、覚える・記憶する行為自体は縄文時代にまで遡る[13]。秋田県鹿角市の縄文時代後期前葉(約4千年前)大湯環状列石の野中堂遺跡隣接地から出土した土版型土偶の刺突紋から、口を1、目を2、右胸を3、左胸を4、正中線を5、裏面の両耳で6といった風に体の部位で数を覚えていたことが明らかになっている[13][14]。 伝説上、瞬間記憶に長けた人物としては、聖徳太子が知られている(『日本書紀』における「豊聡耳」伝説)。また、文字文化が普及していなかった段階での『古事記』の編纂には、記憶に長けた稗田阿礼が起用されたことが知られる。文字文化が普及した後代近世でも盲目の国学者である塙保己一が『群書類従』を編纂するなど(厳密には完成前に没している)、記憶に長けた人物による書物の編纂はみられる。 時代は下り、封建時代の忍者も記憶術に関して方法を記録しており、忍術書『当流奪口忍之巻註』、『心覚目録之事』には、「大袈裟にして覚えること」、「自分のよく知っているものと置き換えて覚える」ように記しており、地形・敵の強弱・人数・日の吉凶・月の出入り・潮の干満・方角・時刻などを覚えた[15]。
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