言語哲学(げんごてつがく、英語:philosophy of language)は、語義的に二つの意味に大別される。 「言語の哲学としての言語哲学」については一方では古代ギリシャの文法学や古代ローマの弁証法(dialectike)や修辞法(retolike)を淵源とする。他方で、純粋な哲学としては、その祖イオニア学派も自然学に傾倒したがその過程で既にパルメニデースやゼーノーンはパラドクスを駆使している。また、ソピステース(ソフィスト・知者)たちは相手に議論によって勝利しようとしたことから、また、「知を愛する人」(フィロソポス、後の「哲学者」)を自称したソークラテースの“産婆術”も、相手を誘導しつつ哲学的解決へと導くという手法から、少なからぬ言語と論理とへの反省的意識が存在していたと推定される。ただし、ここまでは伝承と断片とラエルティオス[1]の報告とプラトーンによる創作を通じての推測である。言語についての哲学的反省について、確実に本人の一次資料に基づいてある程度の分量を述べることができるのはプラトーンからである。 彼は、イデア論やアナムネーシス(想起)説を提唱するに際して、言語的反省と論理的推論に基づいて(対話という表現形式を用いながらも)哲学的諸原理に到達した。更に、その弟子アリストテレースに到ると、単にその形而上学をはじめとする哲理への到達手段として論理を用いたのみならず、論理構造と虚偽論それ自体を体系化して学問範疇となす。特にその論理学は基本的に19世紀のフレーゲまで、論理学の基本となるものであった。 上記の流れはローマ帝国において、一方では法廷弁論術として、他方ではストア派や中期プラトン学派の哲学思考法として継承されたものの、東西の分裂を機に、ギリシャ語圏の東ローマ帝国では観想と聖書の霊的解釈学とを重んじたビザンティン・キリスト教思想において次第に弱体化する。他方、早くに西ローマ帝国の滅亡といわゆる「蛮族」の横行をみたラテン語圏の西ヨーロッパでは、ヒッポのアウグスティヌスという古代末期最大の哲学者が生まれ、命題論としては名辞と名辞の連接、意味論としては名辞とその対象物('Fido'-Fido theoryという揶揄的名称がある)のように、フレーゲ以前を決定付ける言語哲学が確立した。アウグスティヌスは言葉(verbum)を記号(signum)の一種とみなして考察を行った[2]。また、『嘘について (De mendacio)』、『嘘に反対して (Contra mendacium)』、『エンキリディオン (Enchiridion)』などで、アウグスティヌスは、人間の言語活動における文脈や話し手・聞き手の意図の重要性に着目している[3]。彼は他に、『三位一体論』では、「外的語り(locutio foris)」、「心の語り(locutio cordis)」もしくは「内的語り(locutio interior)」、「音声の似姿において思考されるもの(cognitativium in similitudine soni)」の三者を区別した。音声を伴った言葉である「外的語り」に先行して、ギリシア語やラテン語のような自然言語には属しない「思考(cogitatio)」である「内的語り」が存在している。そして、「外的言葉」を声に出さずに考えている場合をアウグスティヌスは「音声の似姿において思考されるもの」と呼んだが、同様の概念が「内言」と呼ばれて発達心理学や認知言語学の分野で20世紀以降注目されている[4]。 ギリシアの論理・言語の哲学はボエティウスによって西方ラテン世界へ紹介された。彼はアリストテレスの『オルガノン』全編やポルピュリオス『エイサゴーゲー』をラテン語へ翻訳した(ただし『オルガノン』のうち『分析論後書』は散逸し、『分析論前書』や『詭弁論駁論』は中世初期には読まれなかった)。ボエティウスの翻訳に不備があるとして非難する声もあるが、文献学的な研究によれば、むしろボエティウスに先行するガイウス・マリウス・ウィクトリヌス
言語の構造・意味・使用法・レトリック等についての哲学。言語の哲学とも呼ぶ。
分析哲学、いわば、言語こそが先立つものであり、言語の理解なくして哲学の問題は解決されえないとする哲学。言語的哲学 (linguistic philosophy) とも呼ぶ。分析哲学も参照のこと。
言語哲学の歴史
言語の哲学としての言語哲学
古代ギリシャ
古代ローマ?中世初期ヨーロッパ