角野 栄子
(かどの えいこ)
ペンネーム角野 栄子
(かどの えいこ)
誕生渡辺 栄子
(わたなべ えいこ)
(1935-01-01) 1935年1月1日(89歳)
日本・東京府東京市深川区
職業童話作家
言語日本語
国籍 日本
教育学士
最終学歴早稲田大学教育学部卒業
活動期間1970年 -
ジャンル小説
代表作『魔女の宅急便』(1985年)
主な受賞歴サンケイ児童出版文化賞(1982年)
路傍の石文学賞(1984年)
野間児童文芸賞(1985年)
小学館文学賞(1985年)
国際アンデルセン賞(2018年)
デビュー作『ルイジンニョ少年、ブラジルをたずねて』(1970年)
親族くぼしまりお(娘)
公式サイト魔女の宅急便ホームページ
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角野 栄子(かどの えいこ、本名:渡辺栄子、1935年1月1日 - )は[1]、日本の童話作家、絵本作家、ノンフィクション作家、エッセイスト。日本福祉大学客員教授。江戸川区角野栄子児童文学館(魔法の文学館)館長。神奈川県鎌倉市在住。 東京府東京市深川区(現・東京都江東区深川)に生まれる[2][3]。5歳の時に生母を病気で亡くし、寂しさを紛らわすために物語をよく空想した[4]。深川で質屋を営んでいた父親は物語をよく聞かせてくれた[5]。江戸川区立西小岩国民学校に入学する。父が再婚後すぐに出征したため父が戻るまで小岩の自宅で新しい母と弟で暮らした[4]。小学4年生の秋、山形県西置賜郡長井町(現・長井市)に学童疎開する。深川の店は東京大空襲で焼失した[4]。異母兄弟も含め6人きょうだい(姉1人、弟2人、妹2人)で育った[4]。学童疎開先の山形から千葉県東葛飾郡木間ヶ瀬村(現・野田市)に移る。終戦後東京に戻り、大妻中学校に2年次編入する。1953年に大妻高等学校を卒業し、早稲田大学教育学部英語英文学科に入学する[6][7]。早大時代は龍口直太郎ゼミに所属した[8]。 大学卒業後、紀伊國屋書店出版部に勤務し一年ほどで結婚。インテリアデザイナーだった夫の希望で、1959年、24歳の時に自費移民としてブラジルに2年間滞在[4][5]。早大時代の恩師、龍口の勧めにより、1970年(35歳)、ブラジル体験を元に描いたノンフィクション「ルイジンニョ少年、ブラジルをたずねて」で作家としてデビューする[9]。 『魔女の宅急便』(1985年)は、大学生の時に写真週刊誌の『Life』で見た、「鳥の目の高さから見たニューヨークの風景写真」と、娘のリオ(後の作家くぼしまりお)が中学生の時に描いた魔女のイラストに着想を得て執筆され[3][10]、宮崎駿によりアニメ映画化された。この作品を書いた時は魔女について特に詳しかったわけではなかったが、映画の公開に伴い魔女についての質問が多く寄せられたのをきっかけに魔女について調べ始めた。魔女についてのエッセイも執筆している。 ただ、このタイトルが「ヤマト運輸の商標権に触れて問題になった」と一部で話題になった。その原因は角野が第1作刊行時に宅急便はヤマト運輸の登録商標である事を知らなかったためである[注 1]。映画化に至って、このアニメをそのままヤマト運輸のCMにした物も作られている。なお同映画を元にした登録商標をスタジオジブリが取得している。 角野は『魔女の宅急便』の映画化に際し、当初は唯一の注文として「キキが旅立つ時にキキの故郷の木に付けられていた鈴を鳴らすこと」のみを求めていた。その後、制作が進むに連れ内容が大きく変わることに否定的になったが、宮崎駿監督と数回対談し解決された[12][注 2]。その「魔女の宅急便」はジブリ版の公開から約25年を経た2014年3月1日に実写版が制作・公開され、原作者である角野栄子が自らナレーションを担当した。 NHK全国学校音楽コンクール(Nコン) 2002年(第69回)・2019年(第86回)小学校の部で、課題曲「おさんぽぽいぽい」、「わたしは こねこ」[14]の作詞を手がける[15]。 2018年、国際アンデルセン賞作家賞を受賞[16]。江戸川区角野栄子児童文学館 2020年10月27日、東京都江戸川区は、なぎさ公園展望の丘(江戸川区南葛西7丁目)に「江戸川区角野栄子児童文学館[17][18]」を建設する基本計画を発表した[19]。設計は隈研吾で[20]、公園整備費をふくめ総工費は約30億円[21][22]。
来歴・人物