角野卓造
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かどの たくぞう
角野 卓造
本名角野 卓造
生年月日 (1948-08-10) 1948年8月10日(75歳)
出生地 日本東京都
身長168 cm
血液型O型
職業俳優声優
ジャンル演劇テレビドラマ映画
活動期間1972年 -
配偶者倉野章子
所属劇団文学座
事務所UAM株式会社
公式サイト ⇒公式プロフィール
主な作品
テレビドラマ
翔ぶが如く
カミさんの悪口』シリーズ
警視庁鑑識班』シリーズ
万引きGメン・二階堂雪』シリーズ
HERO
旅行作家・茶屋次郎』シリーズ
ラッキーセブン
メゾン・ド・ポリス』映画
戦国自衛隊
舞姫
HERO
受賞
紀伊國屋演劇賞(1984年)
芸術選奨新人賞(1985年)
読売演劇大賞最優秀男優賞(1999年)
文化庁芸術祭演劇部門優秀賞(2000年)
紫綬褒章(2008年)
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角野 卓造(かどの たくぞう 1948年8月10日[1][2] - )は、日本俳優声優である。本名同じ[1]文学座劇団代表。

東京都出身[1][2]大阪府育ち。学習院大学[1]経済学部経済学科卒業。文学座所属[1]。マネージメントはUAM株式会社。

血液型はO型。妻は女優倉野章子
来歴

東京生まれ、大阪市東区(現:中央区)道修町育ち。

角野家は広島県呉市の出で、父卓男は元広島県会議員[3][4][5]、戦前は過激な右翼青年で、県議時代は広島抗争の時期でもあり、実家を舞台に美能幸三の手打ち式が行われたこともある[5][6]

卓造も幼稚園に上がる前の一年間は呉市で過ごす[3][5][6]

母は東京千駄ヶ谷の医者の娘[4]

長男が呉の自宅分娩で亡くなったため、母方が次は絶対に病院でと心配し卓造は叔父が勤務医をしていた慶応病院で生まれた[4][7]。生後二年間、東京の母親の実家に預けられた後[7]、広島に戻り[7]、父が二度目の県議選に落ち実家の海運業を潰し、両親とともに大阪の北浜に出て幼稚園大阪市立愛日小学校に通う[5][6][7]。父の転勤で中学から東京に移り[7]千代田区立麹町中学校入学[7]

当時は麹町中学校→都立日比谷高等学校東京大学法学部から大蔵省入省がエリートコースであったが[7]、麹町中学二年のとき、卒業生を送る予餞会でたまたま芝居をやったところ、学友や担任の先生から「芝居が上手い」と褒められ、演劇部からスカウトを受ける。

そこから演劇に夢中になり、それまでは日比谷高校合格ラインにいたが、成績は急降下した[7]。同中学卒業後、学習院高等科に進学。高校時代はみゆき族だった。

1967年(昭和42年)に学習院高等科から学習院大学経済学部経済学科に進学し[7]、1971年(昭和46年)に卒業[7]。学習院高等科および学習院大学では演劇部に所属していた[7]

演劇部の先輩に篠沢秀夫児玉清細川俊之、後輩には黛りんたろう大森博史宮田慶子田中明生がいる。

大学在学中に状況劇場唐十郎と出会い、小劇場でのアングラ演劇に目覚める。一度は、自分で作ったばかりの学習院大学演劇部のアトリエを状況劇場に稽古場として貸したことさえあった。

当時の学習院大学演劇部のアトリエは、学習院大学西2号館内のアメリカンフットボール部の着替え場所に割り込んで作った簡単なものであった。

その後、ハイセイコーの馬主や真田幸村の子孫などの大森博史の世代が本格的なアトリエに改装した。

そのアトリエを大森博史の伝でオンシアター自由劇場に稽古場として貸したこともある。現在はそのアトリエも壊され、代わりに学習院大学が敷地内の富士見会館の4階に本格的で大規模な劇場施設(演劇部アトリエ)を築造し、現在の学習院大学演劇部はそこを活動拠点としている。

早稲田小劇場の芝居が好きで文学座と早稲田小劇場両方の合格通知を貰っていたが[7]、早稲田小劇場は職業的俳優を認めず[7]、食べていける可能性がある文学座研究所に1970年入所[7]1971年入団[7]


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