日本の政治家角田 義一つのだ きいち
2006年10月1日撮影
生年月日 (1937-06-09) 1937年6月9日
出生地 日本・群馬県勢多郡赤城村
没年月日 (2024-02-23) 2024年2月23日(86歳没)
死没地 日本・群馬県前橋市
出身校京都大学法学部
前職弁護士
所属政党(日本社会党→)
(社会民主党→)
(旧民主党→)
(民主党→)
(民進党→)
(旧立憲民主党→)
立憲民主党
称号従三位
旭日大綬章
第25代 参議院副議長
在任期間2004年7月30日 - 2007年1月30日
参議院議長扇千景
参議院議員
選挙区群馬県選挙区
当選回数3回
在任期間1989年7月23日 - 2007年7月28日
群馬県議会議員
当選回数3回
在任期間1973年 - 1983年
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角田 義一(つのだ ぎいち、1937年〈昭和12年〉6月9日 - 2024年(令和6年)2月23日)は、日本の政治家、弁護士。位階は従三位、勲章は旭日大綬章。
参議院議員(3期)、参議院副議長(第25代)、法務政務次官(村山内閣)、群馬県議会議員(3期)、民主党群馬県連会長、立憲民主党群馬県連最高顧問などを務めた。 群馬県勢多郡赤城村生まれ[1]。弁護士角田儀平治の子。群馬県立前橋高等学校から京都大学法学部に進み、1962年卒業。同年司法試験合格。司法修習を経て父同様弁護士となる。 1973年、群馬県議会議員選挙に日本社会党公認で立候補し初当選。県議会では「県情報公開条例」の制定や「県央処理場設置問題」の調停などに取り組む。県議3期目の1983年6月、第13回参議院議員通常選挙に群馬県選挙区から日本社会党公認で立候補するも落選。1984年には群馬県知事選挙に日本社会党推薦・無所属で立候補するも落選。1986年の第14回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で再び立候補するも落選。 1989年の第15回参議院議員通常選挙に三たび立候補し初当選。参議院予算委員会理事、議院運営委員会理事、党総務局長などを歴任した。1994年、村山内閣で法務政務次官を務めた。1995年の第17回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で立候補し再選。 1997年6月19日、社会民主党を離党[2]。同日に旧民主党に入党した[2]。 同年6月22日、旧民主党の群馬県支部である「民主党群馬」[3]の中島政希が民主党群馬の代表を退任し、角田が新代表に就任した[4]。 1998年、(新)民主党の結成に参加。民主党群馬県連では会長となった。 2001年には第19回参議院議員通常選挙に民主党公認で立候補し3選、民主党参議院議員会長となった。 2004年、参議院副議長に就任した。 2006年6月28日、前橋市内で記者会見を開き、次期参院選には出馬せず国政を引退する意向を正式に表明した[5]。 2007年1月、角田の闇献金疑惑が浮上し[6]、1月26日に参議院副議長職の辞任願を扇千景参議院議長に提出[7]。1月30日に副議長を辞任(詳細は#闇献金疑惑と参院副議長辞任を参照)[8]。 第21回参議院議員通常選挙には立候補せず、国政を引退。民主党は角田の後継公認候補を擁立せず[注 1]、国民新党の福田晃治を推薦したが、改選数が2から1に減らされていたため、自民党の山本一太に大差で敗れた。国政引退後は地元で弁護士活動を続けている。 2016年12月に北朝鮮の下部組織の金剛山歌劇団の2016年千秋楽が行われた群馬県高崎市での公演を弁護士として観賞した後に、団員の在日朝鮮人(在日韓国人ではない)らに最後に『熱い一言』を与えて鼓舞した[11]。 2017年9月28日の民進党両院議員総会で希望の党への事実上の合流方針が了承されたことを受け、9月30日夜に宮崎岳志が前橋市内で開催した宮崎の支持者向けの緊急集会に民進党群馬県総支部常任顧問として参加し、希望の党代表の小池百合子東京都知事を「緑のタヌキの下で党がまとまるのか」などと批判する持論を展開した[12]。角田はこの集会で「私は殺されても希望の党には行かない!」「タヌキは戦争大賛成」などと希望の党や小池百合子への激しい批判を繰り返した[13][14]。 2018年2月、旧・立憲民主党に参加するために民進党群馬県総支部に離党届を提出[15]。同年4月15日に旧・立憲民主党群馬県連合の最高顧問に就任した[16][17]。2020年10月4日、新・立憲民主党の群馬県総支部連合会(群馬県連)が設立され、その最高顧問に就任した[18]。
来歴