観世音寺
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、福岡県太宰府市にある天台宗の寺院について説明しています。茨城県笠間市にある普門宗の寺院については「正福寺 (笠間市)」をご覧ください。

観世音寺

講堂(福岡県指定文化財)
所在地福岡県太宰府市観世音寺五丁目6番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度30分54.1秒 東経130度31分16.7秒 / 北緯33.515028度 東経130.521306度 / 33.515028; 130.521306 (観世音寺)座標: 北緯33度30分54.1秒 東経130度31分16.7秒 / 北緯33.515028度 東経130.521306度 / 33.515028; 130.521306 (観世音寺)
山号清水山
宗派天台宗
本尊聖観音
創建年7世紀後半の発願
完成は天平18年(746年
開基天智天皇
札所等九州西国33観音33番
文化財梵鐘(国宝)
木造観音菩薩坐像等17件(国の重要文化財)
境内および子院跡(国の史跡)
金堂・講堂(福岡県指定文化財)
法人番号1290005006566
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}
テンプレートを表示
境内入口

観世音寺(かんぜおんじ)は、福岡県太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗寺院山号は清水山。本尊は聖観音[1](しょうかんのん)。開基は天智天皇である。九州西国三十三箇所第三十三番札所。

九州を代表する古寺で、造営開始は7世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つに数えられる。平安時代以降は徐々に衰退したが、仏像をはじめとする文化財を豊富に有する。
歴史

九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものは延喜5年(905年)成立の「観世音寺資財帳」(東京藝術大学所蔵、国宝)である。

続日本紀』の記述によると、観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したという。斉明天皇は661年に没していることから、それからほどなく造営が始められたと推定される[2]。『二中歴』には観世音寺創建は白鳳年間(661年-683年)のことであるとの記事が見える。『続日本紀』の和銅2年(709年)の記事によると、この時点で造営はまだ完了しておらず、完了したのは発願から約80年も経った天平18年(746年)のこととされる[3]

観世音寺境内から出土した瓦のうち、創建時の瓦とされるものは、老司 I式と称され、飛鳥の川原寺藤原京の瓦の系統を引く、複弁八弁蓮華文の軒丸瓦と偏行唐草文の軒平瓦の組み合わせからなるものである[4]。この老司 I式瓦は現在の福岡市南区老司にあった瓦窯で焼造されたもので、7世紀にさかのぼる。また観世音寺に現存する梵鐘は、正確な鋳造年次は不明ながら、「戊戌年」(698年)の銘がある京都妙心寺梵鐘と同一の木型によって鋳造された兄弟鐘とみなされる。これらのことから、7世紀末ころまでにはある程度の寺観が整っていたものと推測される。

現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はないが、発掘調査によると、回廊で囲まれた内側の東に塔、西には金堂が東面して建つ、川原寺式に近い伽藍配置であった。その後天平宝字5年(761年)、鑑真によって当寺に戒壇院が設けられた。これは、僧になる者が受戒をするためにわざわざ都へ出向かずとも、観世音寺で受戒ができることを意味した。

また、紫式部が著した源氏物語玉蔓の巻に「清水の御寺の観世音寺」との記述がある。

平安時代以降の観世音寺は、たび重なる火災や風害によって、創建当時の堂宇や仏像をことごとく失った。康平7年(1064年)には火災で講堂、塔などを焼失。現存する当寺の仏像は、大部分がこの火災以後の復興像である。康和4年(1102年)には大風で金堂、南大門などが倒壊している。金堂はその後復旧したが、康治2年(1143年)の火災で再度焼失している[5]

寛永7年(1630年)の暴風雨で、当時唯一残っていた金堂が倒壊し、観世音寺は廃寺同然の状況に追い込まれた。翌寛永8年(1631年)に金堂が、元禄元年(1688年)には講堂(本堂)が藩主黒田家博多の豪商である天王寺屋浦了夢らによって復興されたが、昔の面影には遠く及ばない。当初は「八宗兼学の寺」とされ、平安時代後期以来、東大寺の末寺であったが、明治時代以降は天台宗の寺院となっている[6]

大正2年(1913年)から同4年にかけて、傷みの激しかった諸仏の修理が行われた[7]昭和34年(1959年)には鉄筋コンクリートの宝蔵が完成。これは、寺院の文化財収蔵庫としては早い時期につくられたものである。宝蔵には像高5メートル前後の巨像3体(馬頭観音不空羂索観音十一面観音)をはじめ、金堂、本堂(講堂)に安置されていた諸仏が収蔵・公開されている。
伽藍金堂

かつて存在した門、回廊などは失われている。県道から並木道の参道を北へ進み、南門跡を過ぎると、やや小高くなった広場があり、左方に金堂、正面に講堂が建つ。この他、広場の東方に塔跡と鐘楼、その奥に宝蔵、講堂裏手に僧坊跡がある。また、寺の西に隣接して戒壇院が建つ。「天下三戒壇」の一とされた戒壇院の後身であるが、現在の戒壇院は観世音寺とは別法人であり、宗派も臨済宗である。

発掘調査の結果によると、創建当初の伽藍は東西93メートル、南北78メートルの回廊で囲まれた敷地の東に五重塔、西に金堂が建つもので、回廊の南面中央に中門、北面中央に講堂が建っていた。これら中心伽藍の南には南大門、北には東西に長い僧坊が建つほか、多くの付属建物があり、境内地は方三町に及んでいた。金堂は南でなく東を正面とし、五重塔と向かいあう形で建てられていた。金堂を東向きに建てる点は、飛鳥の川原寺とも共通している。川原寺は観世音寺と同じく斉明天皇ゆかりの寺であり、前述の出土瓦の形式等からも両寺の結びつきが推定される。五重塔は焼け残った心礎のみが残っており、塔は一辺が6mと推定されている。
南大門跡
参道両脇にいくつかの礎石が残っている。礎石自体は創建当初のものと推定されるが、当初の位置を保っていない。
中門跡
金堂、講堂の建つ広場の手前の石段のあたりにあったと推定されるが、礎石などの遺構は残っていない。
金堂
入母屋造瓦葺きの簡素な建物で、寛永8年(1631)再建。境内の西側、創建時の金堂の跡に東面して建つ。1959年に宝蔵(収蔵庫)ができるまでは、堂内奥(西側)の壁を背にして中央に本尊阿弥陀如来坐像を安置し、その左右に四天王像を2体ずつ安置し、これらの手前に石造狛犬一対があった。さらに堂内北の壁際には本尊に近い側から順に十一面観音立像、大黒天立像、地蔵菩薩半跏像、阿弥陀如来立像、南の壁際には本尊に近い側から順に吉祥天立像、地蔵菩薩立像、兜跋毘沙門天立像、聖観音立像が安置されていた[8][9]。現在これらの像は宝蔵等へ移動され、堂内には不動明王坐像が安置されている。
講堂
「本堂」ともいう。境内正面奥の一段高くなった位置に南面して建つ、入母屋造瓦葺き二重屋根の仏堂。元禄元年(1688年)再建。1959年に宝蔵(収蔵庫)ができるまでは、像高5メートル前後の巨像3体を含む5体の観音像を安置していた。すなわち、堂内奥(北側)の壁を背にして中央に本尊聖観音坐像を安置し、その向かって左に十一面観音立像(像高5メートル)、右に不空羂索観音立像が安置され、堂内東の壁を背にして十一面観音立像(像高3メートル)、西の壁を背にして馬頭観音立像が安置されていた[8][10]。現在これらの像は宝蔵へ移動され、堂内にはもと金堂にあった聖観音立像を安置する。堂の周辺に残る礎石は、かつては創建当初のものと考えられていたが、発掘調査の結果、現在地表に見える礎石は平安時代以降のものと確認された。堂の左手前には奈良時代のものと伝承する石臼(碾磑)がある。石臼も日本最古と言われており、一段で400Kgの重さがある。
塔跡
鐘楼前に塔の心礎が残り、直径約90センチメートルの柱穴がある。発掘調査の結果、この心礎は当初位置から動いていないことが確認されている。
僧坊跡
講堂の背後にある。延喜五年の「資財帳」にみえる僧坊の跡で、南北10メートル、東西100メートルの規模があった。現在地表にある礎石は実物ではなくレプリカである[11]
伝玄ム(日偏に「方」)墓
講堂の西、道路を隔てた民家の脇に立つ浮彫の宝篋印塔で、奈良時代の僧・玄ムの墓と伝承されているが、塔自体は中世のものである[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef