観世流
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出典検索?: "観世流" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2009年2月)

観世流(かんぜ-りゅう)は能楽における流派の一つである。シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある。
シテ方

シテ方観世流は大和猿楽四座のひとつ結崎座に由来する能の流儀。流儀の名は流祖観阿弥の幼名(芸名とも)である「観世(丸)」に基く。二世世阿弥は能の大成者として名高い。

現宗家は二十六世観世清和能楽協会に登録された能楽師は2006年(平成18年)の時点で560名あまりにのぼり、五流最大の流勢を誇る。一時梅若家が梅若流として独立したこともあったが、現在は観世流に復帰している。

大流であるため、内部に芸風の差があるが、豊麗で洗練された味わいが特色とされる。はギンを出さず(産み字をつけない)、高音を利かせて華やかに謡うのが特色で、も圭角の少ないまろやかなものを好む。戦後『三山』『求塚』『蝉丸 (能)』を復曲し、現行曲は210番。
歴史
観阿弥・世阿弥

流祖観阿弥清次(1333年?1384年)は山田猿楽の美濃大夫に養子入りした何某の三男で[1]、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年文中2年/応安6年)頃に行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ[1]、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。

二世世阿弥元清(1363年??1443年)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基佐々木道誉らの庇護を受け、和歌連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江猿楽犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。足利義持の代となると、義持の後援した田楽の名手増阿弥と人気を争う一方で、『高砂』『忠度』『清経』『西行桜』『井筒』『江口』『桜川』『蘆刈』『』『』『恋重荷』などの能を新作し、『風姿花伝』『至花道』『花鏡』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成に努めた。

世阿弥は1422年応永29年)頃の出家と前後して、大夫を長男観世元雅(??1432年)に譲った。元雅は世阿弥が『夢跡一紙』で「子ながらもたぐひなき達人」と評したほどの名手で、『隅田川』『弱法師』『歌占』『盛久』など能作においても優れていた。しかし義持の没後、世阿弥の甥である音阿弥(観世元重)を後援する足利義教将軍に就任すると、1429年正長2年/永享元年)に仙洞御所での演能が中止され、醍醐寺清滝宮の楽頭職を音阿弥と交代させられるなど、さまざまな圧迫が世阿弥・元雅親子に加えられ[2]1432年(永享4年)に元雅が客死、翌1433年(永享5年)には音阿弥が観世大夫を襲う(現在では音阿弥を三世とする)。

晩年の世阿弥は『拾玉得花』を女婿金春禅竹に相伝し、聞書『申楽談義』を残すなどなお意欲的に活動したが、1434年(永享6年)、義教の命によって佐渡に配流され、ここに観世座は完全に音阿弥の掌握するところとなった。
音阿弥・信光・長俊

観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年?1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博したと考えられている[3]。前代には有力な競争相手であった田楽や近江猿楽がこの時代にはほとんど駆逐され、観世座が猿楽の筆頭として室町幕府に重用された背景には、音阿弥の活躍が大きく影響していたものと思われている[4]

音阿弥の後は四世又三郎政盛(音阿弥の子)、五世三郎之重(政盛の子)、六世四郎元広(之重の子)、七世左近元忠(法名宗節、元広の子)と四代にわたって若年の大夫が続いたため、音阿弥の七男観世信光とその子観世長俊が後見として大きな役割を果した。


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