観世喜之
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矢来観世家(やらいかんぜけ)とは、能楽シテ方観世流職分家のひとつ。観世九皐会を主宰し、分家観世銕之丞家の分家筋にあたる。梅若がかりの芸風を持ち、流内で宗家、分家、梅若両家に次ぐ格式と規模を持つ。
歴史

明治時代、銕之丞家四世の観世清済の次男源次郎氏演が、初世梅若実婿養子となって五十三世梅若六郎を相続・襲名したものの、後に実に二人の実子(初世梅若万三郎二世梅若実)が生れたので観世姓に復し、分家したことにはじまる。分家後、源次郎は観世清之(かんぜきよし)を名乗った。清之が一旦は梅若家へ入った事情により、芸系は梅若流に属する。

明治39年(1906年)、雑誌『能楽』に「九皐会」の名称が初出(独立は明治41年、月並会の開催は明治44年より)。

明治44年(1911年)、初世観世喜之が神田西小川町の自邸に能舞台を建て、同年6月17日第一回観世九皐会開催。

大正12年(1923年)、関東大震災により西小川町の舞台が焼失。

大正13年(1924年)、目白の二世観世喜之邸内に舞台竣工、舞台披き。

昭和5年(1930年)、牛込矢来町(現矢来能楽堂所在地、東京都新宿区矢来町60番地)に観世九皐会能楽堂落成。披露能開催。

昭和20年(1945年)5月24日、東京空襲により九皐会能楽堂焼失。

昭和21年(1946年)、染井能舞台にて、九皐会復興。

昭和27年(1952年)、牛込矢来町に観世九皐会能楽堂落成、矢来能楽堂と改称し舞台披き。同年9月17日より21日まで、矢来能楽堂舞台披記念「日加壽能」を開催。

昭和27年9月 社団法人観世九皐会設立。

平成14年4月 矢来能楽堂50周年記念日賀寿能を開催。

平成20年?22年 観世九皐会百周年記念公演を開催。

平成24年4月 公益社団法人観世九皐会に移行。

明治40年(1907年)、矢来観世家は丸岡莞爾観世流改定本刊行会(現能楽書林)と協力し、それまでの謡本とは一線を画す改訂本を独自に刊行したが、これが当時の能楽界において問題となった。江戸時代以来の慣行として、流儀の謡本は宗家にのみ版権が帰属するとされていたからである。そしてこの事について宗家と清之の間で裁判となったが、結果は大審院において清之側の勝訴が確定した。以来能楽書林とは深い関係にあり、現在でも同社から独自の謡本を発行して使用している。しかし梅若流独立騒動の際には宗家側に立ち、最後まで観世流にとどまった。
歴代当主

初代:
観世清之 - 観世清済の次男。初名源次郎氏演。一時五十三世梅若六郎襲名

二代:観世喜之 (初世) - 初代の養子。永島喜助の子。

三代:観世喜之 (2世) - 二代の養子。初名武雄。号輪雪。名人として知られる。

四代:観世喜之 (3世) - 三代の養子。前名武雄。本名敬祐。現当主。

外部リンク

観世九皐会


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