親衛隊_(ナチス)
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親衛隊
Schutzstaffel

ルーン文字で表記した「SS」
別名“黒地に銀の重ね稲妻”


帽章。トーテンコップ(髑髏)
創設1925年4月4日
廃止1945年5月8日
所属政体 ドイツ国
 ドイツ国
所属組織 国民社会主義ドイツ労働者党
部隊編制単位総軍
人員125万人(1945年2月)
所在地

ミュンヘン、プリエナー大通り45「褐色館

ベルリンプリンツ・アルブレヒト通り
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯52度30分26秒 東経13度22分57秒 / 北緯52.50722度 東経13.38250度 / 52.50722; 13.38250

通称号/略称SS
標語
『忠誠こそ我が名誉』
(Meine Ehre heist Treue)
   【隊歌】
『縦ひ全てが背くとも』
(Wenn alle untreu werden)
上級単位 突撃隊(1934年まで)
担当地域ヨーロッパ
主な戦歴第二次世界大戦
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親衛隊(しんえいたい、:Schutzstaffel  発音[ヘルプ/ファイル]、シュッツシュタッフェル、略号:SS)は、ドイツの政党、国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、主に第一次世界大戦時の将校や指揮官などの退役軍人が高官を務めた。ドイツ語でSchutzが「護衛」「防護」、Staffelが「梯団」「梯隊」を意味する。
概要

元は総統アドルフ・ヒトラーを護衛する党内組織(親衛隊)として1925年に創設された。

1929年ハインリヒ・ヒムラー親衛隊全国指導者に就任し、彼の下で党内警察組織として急速に勢力を拡大。ナチスが政権を獲得した1933年以降には政府の警察組織との一体化が進められた。保安警察ゲシュタポ刑事警察)、秩序警察親衛隊情報部強制収容所など第三帝国の主要な治安組織・諜報組織はほぼ全て親衛隊の傘下に置かれていた。1934年には正規軍である国防軍から軍事組織の保有を許可され、親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)を創設した。以降特務部隊以外の親衛隊員は一般親衛隊と呼ばれるようになった。

第二次世界大戦中、武装親衛隊がヨーロッパ各地で戦ったが、警察業務の親衛隊はドイツ及びドイツ占領下のヨーロッパ諸国においてナチ支配の維持、反ナチ勢力の弾圧ユダヤ人狩りなどにあたった。戦時中に親衛隊は絶滅収容所アインザッツグルッペンを組織してユダヤ人の絶滅を図ろうとした(ホロコースト)。そのため親衛隊は悪名高い組織となり、戦後のニュルンベルク裁判では全ての親衛隊組織は「犯罪組織(:Criminal Organization)」であるとする認定を受けた。21世紀に入って尚、隊員達は本人の死亡が確認されるまで犯罪者として追跡され、居所が確認されれば逮捕裁判に掛けられている[1]

隊のモットーは「Meine Ehre heist Treue(My honor is called fidelity:忠誠こそ我が名誉、我が名誉は忠誠を宣する事)」。
歴史
前身

1920年の結党から1933年の政権獲得まで闘争時代は、反対政党に対する武闘組織として突撃隊 (SA) があった[2]

党首アドルフ・ヒトラー個人のボディーガード集団としては1923年3月に「司令部護衛隊(Stabswache)」が創設されたのが最初である[3][4][5]。この組織は1923年5月に「アドルフ・ヒトラー特攻隊 (Stostrupp Adolf Hitler)」に改組された[5][6][注釈 1]。衝撃隊の隊員数は200名ほどであり[6][7]、隊長は突撃隊員ユリウス・シュレック退役大尉(ドイツ語版)とナチ党財務担当ヨーゼフ・ベルヒトルト退役少尉(ドイツ語版)の二人で務めていた[3][4]

ミュンヘン一揆の際、「アドルフ・ヒトラー特攻隊」は、警官隊の銃撃で転倒したヒトラーを文字通り盾となってかばい、5名の隊員が代わりに警官の銃撃を受けて死亡した[8]ウルリヒ・グラーフもヒトラー衝撃隊の隊員としてヒトラーをかばい、重傷を負った人物である[5]。この時彼らの血で染まった党旗が残されたが、ヒトラーは彼らの功績を忘れず、のちにニュルンベルク党大会で突撃隊や親衛隊の部隊にこの「血染めの党旗(ドイツ語版)」に触れさせて忠誠を誓わせる儀式を行っている[8]

ミュンヘン一揆の失敗でナチ党も突撃隊もヒトラー衝撃隊も強制的に解散させられた[8][9]
結成

1924年12月20日ランツベルク刑務所を出獄したヒトラーは、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトと会談して二度と一揆を起こさない事を約束するなどして、1925年2月25日にナチ党に対する非常事態宣言の解除にこぎつけた。これによりナチ党を再建することが可能となり、2月27日にヒトラーはナチ党の再結党宣言を行った[10]

ナチ党組織の再建の中でヒトラーは、1925年4月中旬にユリウス・シュレックに自らの警護部隊を再建するよう命じた。2週間後の5月にこの組織は「親衛隊(Schutzstaffel)」の名前を与えられた[11][12][13][注釈 2]。発足当時の親衛隊隊員数はわずかに8名であった[12]

初期の親衛隊には以下のような入隊条件があった。

年齢23歳から35歳まで

2人以上の保証人が立てられる

同一の住居に5年以上居住している旨を警察に届けてある

健康で頑強な体を持っていること

また、親衛隊の行動指針にはアルコール中毒者、おしゃべり非行歴がある者は酌量されないと定められていた。ドイツ人であればほとんど誰でも入隊できた突撃隊と異なり、親衛隊は設立当初から一定の入隊条件が存在していたことになる[13][14][15]。親衛隊は設立後すぐにドレスデンにおいて共産党員50名によるナチ党集会襲撃の企みを未然に防いで功績をあげた[8][15]

シュレックは親衛隊の拡張に努め、1925年9月には全ての地方党グループに親衛隊を設置するよう命令を下した[15]。1925年クリスマスの親衛隊の報告によれば、隊員数は1,000人になっていたという[16]。1926年春には「親衛隊司令部(SS-Oberleitung)」が創設された[17]

1926年4月にベルヒトルトが亡命先のオーストリアから帰国して、シュレックから親衛隊隊長の職を受け継いだ[18][19]。1926年7月4日のヴァイマルでの第二回党大会で「血染めの党旗」が突撃隊から親衛隊の管理に移されることとなった[16][20][21]

1926年11月1日フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者に任じられたのを機に親衛隊は突撃隊の傘下に組み入れられ、同時にベルヒトルトは「親衛隊全国指導者」(Reichsfuhrer-SS)の肩書を得た[19][20][22]

結局ベルヒトルトはフォン・ザロモンとの軋轢を強めて辞職した[23]1927年3月にベルヒトルトの副官エアハルト・ハイデンが代わって親衛隊全国指導者に就任した[23][24][25]。突撃隊最高指導者フォン・ザロモンは各地区の親衛隊員数を突撃隊員数の10 %以下にすることを命じ、これによりハイデンは隊員数の削減を迫られた。そのため1928年までに親衛隊の隊員数は280人にまで落ち込んだ[23][26]。ハイデンもフォン・ザロモンとの軋轢を強めて1929年1月6日に辞職することとなった[20][21]
勢力拡大1929年のハインリヒ・ヒムラー

1929年1月6日にハイデンの副官であったハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導に任じられた[25][27][28][29][30][31][32]


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