親不知
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この項目では、日本海沿いにある地形について説明しています。その他の用法については「親知らず (曖昧さ回避)」をご覧ください。
国道8号は山肌にへばりつくように、北陸自動車道は海上高架橋で通過する。親不知の天険断崖歌川広重六十余州名所図会』より「越後 親しらず」小林清親『親不知浜』(1897年・明治30年)

親不知(おやしらず)は、新潟県糸魚川市の西端に位置するが連なった地帯。正式には親不知・子不知(おやしらず・こしらず)といい、日本海の海岸の断崖絶壁に沿って狭い砂浜があるだけで古くから交通の難所として知られる[1]

1967年4月11日には、面積305haの親不知子不知県立自然公園に指定された[2]
概要

飛騨山脈(北アルプス)の日本海側の端に当たる。親不知駅がある歌(うた)の集落を中心に、西の市振(いちぶり)地区までが親不知、東の勝山(かつやま)地区までが子不知(こしらず)とよばれており、併せて親不知子不知ともよばれる。市振から勝山までは約15キロメートル (km) 程の距離である[3]。日本海に面する断崖は、飛騨山脈の北端が日本海によって侵食されたために生まれたもので、崖の高さは300 - 400メートル (m) ほどある[3]

かつて越後国越中国の間を往来する旅人は、この断崖の下にある海岸線に沿って進まねばならず、古くから北陸道(越路)最大の難所として知られてきた。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜け、大波が来ると洞窟などに逃げ込んだが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれる[3]

地形的に軍事的な要衝にもなっていた。承久3年(1221年)の承久の乱では、朝廷側が親不知西側の市振で防衛線を展開。越後側から進軍してきた北条朝時を迎え撃ったが、1日のうちに撃破されている[4]

江戸時代、参勤交代制度が始まると加賀藩主が親不知を往来した。参勤交代時には、富山県側の新川郡から400 - 500人の波除人夫が集められ、人垣により波濤を防いで通行した[5]

明治時代、明治天皇の北陸・東海両道巡幸の際に危険な親不知ルートを迂回して山道を通ることになったのを切っ掛けに1880年明治13年)に新潟県会で新道開発の議決がなされ、1882年(明治15年)5月に着工、1883年(明治16年)12月になって初めて、断崖を削って北陸街道(現:国道8号にあたる)がつくられ[6][7]、その後1912年(明治45年/大正元年)に北陸本線(現:えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン[8]が開通している。

国道については、その後子不知地区8.2 kmが1933年昭和8年)から3年間・親不知地区6.3 kmが1936年(昭和11年)から4年間道路改築が進められ、幅員5.5 m - 6.5 mが確保されることになった。駒返洞門が完成した1958年(昭和33年)に建設省北陸地区建設局により調査着手し、1963年(昭和38年)に工事開始、1967年(昭和42年)に全線が2車線の本格的な自動車道として完成した。その後も歌バイパスの整備やロックシェッドを主とする二次改築工事などが進められた[9][10]

鉄道・国道の2路線は上記の様にいずれも防災対策からのちにルート変更が行われており、この区間には放棄された旧線・旧道が散見される。

1971年(昭和46年)、国道8号天嶮トンネル東口付近から栂海新道登山道)が開通し、標高ゼロメートルから北アルプスの縦走に挑める登山道の玄関口となった[11]


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