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覚深入道親王(仁和寺蔵)
覚深入道親王(かくしん/かくじん[1] にゅうどうしんのう、天正16年5月5日(1588年5月29日) - 慶安元年閏1月21日(1648年3月15日)[1])は、江戸時代前期の皇族、真言宗の僧。後陽成天皇の第1皇子。母は典侍・中山親子
。仁和寺第21世門跡。出家前の諱は良仁親王(かたひと しんのう)[1]。後南御室[2]とも呼ばれる。覚深法親王(?ほっしんのう)としたものも多いが、親王宣下は出家前にすでに受けているので正しくは法親王ではなく入道親王である。文禄3年4月29日(1594年6月17日)、次期天皇即位を前提に親王宣下を受ける。一説にはこの親王宣下の背景には豊臣秀吉の後押しがあり、朝鮮出兵が成功して明を征服した暁には後陽成天皇を北京に遷して、良仁親王を日本の天皇にする計画が存在したとも言われている。2年後には亡くなった正親町上皇の御所を将来の東宮御所にすべく親王に与えられている。
ところが、慶長3年(1598年)秀吉が死亡すると、突如、後陽成天皇が良仁親王を皇位継承者から外す意向を示す。この時は朝廷・豊臣政権ともに強く反対して中止されるものの、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに勝利して政治の実権を握った徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃して、天皇の正室である女御・近衛前子が生んだ第3皇子の政仁親王(後の後水尾天皇)を代わりに立てることを条件に天皇の意向を受け入れた。
慶長6年3月5日(1601年4月7日)、良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾。慶長19年(1614年)、一品に叙せられて法中第一座の宣下を受けた。
仁和寺は応仁の乱で伽藍を全焼しており[1][3][4]、辛うじて残された院家の真光院に本尊などが移されている状態であった[3]。覚深入道親王は伽藍再建に尽力し[1]、寛永11年(1634年)、江戸幕府に対して伽藍再興を願い出て認められている[3][4]。『仁和寺御伝』によれば、上洛した徳川家光に覚深入道親王が申し入れたものという[3]。この時の再建は御所の改築と重なったため、かつての紫宸殿や清涼殿などの建物が仁和寺に移築され、現在の伽藍を形成している[3]。仁和寺の再興に関連して、真光院の古御堂は栂尾の高山寺に移築され[5]、花園の今宮神社や宇多野の福王子神社の再興も行われている。
墓所は仁和寺宮墓地
にある。法弟に承法法親王(性承法親王)がいる。書に秀で、「聖教目録」8巻を改訂している。先代:
任助法親王仁和寺門跡
次代:
承法法親王
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更新日時:2018年1月19日(金)04:06
取得日時:2019/07/31 18:48