見聞集
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『見聞集』(けんもんしゅう)は、寛永後期に三浦浄心によって著された、江戸初期の世相や出来事を主な話題とした仮名草子。全10巻。『三浦見聞集』(みうらけんもんしゅう)『慶長見聞集』(けいちょうけんもんしゅう)とも。浄心の子孫の家に秘書として伝えられ、期の三浦義和の頃から伝写により流布。明治以降、翻刻が多種刊行されている。作中に作品当時が慶長19年(1614年)と記載があるため「慶長」の語が冠されることが多いが、これは(幕政批判に対する干渉を避けるための)擬態で、実際の作品成立時期は寛永後期と考えられている(#成立時期を参照)。近年に至るまで、作品当時を慶長19年と解釈したことに起因する混乱が江戸時代研究関係各所で見受けられる。
著者

著者名は明記されていないが、巻5「花折る咎に縄かゝる事」に「三浦屋浄心」の名前に言及があり、また跋にあたる巻10「老て小童を友とする事」に「浄き心にあらざれば」という名前の分かち書きがあって、三浦浄心の著書である[1]

浄心の著書の刊本の序には、「翁」や「三五庵木算入道」が著した『見聞集』32冊(と『(稿本)そぞろ物語』20冊)の一部を別人が写して編纂し、『(刊本)そぞろ物語』『北条五代記』『見聞軍抄』『順礼物語』を刊行した、という経緯が記されているが、これは擬態で実際には全編、浄心自身の著書と考えられている。なお、『見聞集』は写本で伝わっており、同書の序にはこの擬態は用いられていない。[2]
成立時期

序・跋に始まり、作中にも「今」を慶長19年(1614年)、自身を50歳余とする記述があるが、(1)元和・寛永の出来事への言及があること(2)作中に記された著者の情報から、作品当時が寛永12年(1635年)以降と考えられること(3)参照している文献に寛永期に刊行された書籍が含まれていること から、これらは擬態であり、実際の成立時期は寛永後期と考えられている(下記)[3][4]
元和・寛永の出来事への言及

巻2「真言浄土宗論之事」にみえる浄土宗法度の日付が慶長19年(1614年)正月となっているが、
増上寺所蔵原本の日付は元和元年(1615年)7月 日で、『御当家令条』『御制法』所載の条文写しの日付も原本のとおり(慶長19年正月には、草案もできていなかったはず)[5]

巻4「諸士弓筆の道を学び給へる事」に元和元年(1615年)の大坂落城に言及があり[1]、慶長19年(1614年)と記されている「武家諸法度」(全11条)は元和2年(1616年)の修正条文[6]

巻7「角田川一見の事」に詠歌を載せている阿野宰相の東下は元和2年(1616年)3月[7]

巻5「吉原町の橋渡りかねたる事」・巻7「よし原に傾城町立る事」にみえる(元)吉原町の遊廓は、庄司勝富『異本洞房語園』によれば元和4年(1618年)の開設[8][9]

巻5「日本橋市をなす事」に「件の日本橋は、(…)その後、此橋、御再興、元和4年戊午の年(1618年)なり」[10]と記してある[1]

巻8「江戸の境地世にこたえる事」に「見渡せる旧跡には、浅草に観音、湯島に天神、神田に大明神、貝塚に山王権現、桜田山に愛宕、いずれもゝゞゝゝあらたにましませば」とあり『武江披沙』所収の「神田大明神由緒書」によれば神田神社は慶長8年(1603年)まで神田橋御門の外、芝崎村にあり、その後に駿河台へ移され、元和2年(1616年)に湯島へ遷座。元和3年(1617年)に社殿が完成した後、神号を「大明神」とした[11]。また桜田山の愛宕神社は本殿構築が慶長15年(1610年)であり、慶長19年(1614年)時点で「旧跡」に含められていることに違和感がある[12]

巻10「湯島天神御繁昌の事」に言及のある霊巌寺の開創は寛永元年(1624年)[13]

巻7「南海をうめ江戸町立給ふ事」に「南は品川、西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草まで町つつきたり」、巻8「江戸の境地世に聞えたる事」に「清水の門に立て夏かと思へは時しらぬふしの雪をみて」、巻10「江戸ちまたの事」に「江戸より外へ出る口は、品川口、田安口、神田口、浅草口、舟口ともに五口有り」などとある「田安口」や「清水門」は外郭濠が完成した後の呼称とみられ、田安門は寛永元年(1624年)頃から存在、清水門の修築は同年[14]

巻5「よし原町の橋渡りかねたる事」にある吉原町の思案橋の架橋は、『異本洞房語園』によれば寛永5年(1628年)11月のこと[15]

巻9「新福寺諸国くわんしんの事」に、過去の出来事として述べられている本郷富士権現の駒込勧請は、『兎園随筆』『東京通志』などによると寛永3年(1626年)から同5年(1628年)頃のこと[11]

巻3「延寿院養生うたひの事」に「見しは今、延寿院道三は当地の名医、諸人信敬す80余才長命なり、養生故そと人沙汰せり」とある延寿院は翠竹院正盛の養子・曲直瀬道三玄朔で、寛永5年(1628年)に83才で没、もしくは寛永8年(1631年)没[16]

著者の情報

巻1「道斎日夜双紙を友とする事」に「道斎といふ老人」が「愚老七十余歳なり」とあり、永禄8年(1565年)生まれの浄心が70余歳であれば寛永12年(1635年)以降
[1]


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