見田宗介
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みた むねすけ
見田 宗介
生誕
1937年8月24日
日本東京都
死没 (2022-04-01) 2022年4月1日(84歳没)[1]
日本東京都八王子市[2]
国籍日本
別名まき ゆうすけ
真木 悠介
出身校東京大学
職業社会学者大学教授
活動期間1965年 - 2022年
代表作『現代社会の理論』
『社会学入門』
『気流の鳴る音』[2]
子供見田竜介、見田航介
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見田 宗介(みた むねすけ、1937年8月24日 - 2022年4月1日[1])は、日本の社会学者東京大学名誉教授。学位は、社会学修士。専攻は現代社会論比較社会学文化社会学瑞宝中綬章受勲。社会の存立構造論やコミューン主義による著作活動によって広く知られる。筆名に真木悠介がある。著書に『現代社会の理論』(1996年)、『時間の比較社会学』(1981年、真木名義)など。
人物・来歴

東京生まれ。父はヘーゲル研究者の見田石介(甘粕石介)。母は東京音楽学校(現東京芸術大学)ピアノ科助教授で、長澤實導の姉の見田公子。

小学生の頃に父から渡されたヘーゲルの『論理学』を愛読した[注釈 1]。6歳で母と死別し、また戦中に日大でドイツ語を教えていた父がナチス批判により一時投獄され、戦後も失業が続くなど、幼少期は貧困のうちに過ごす[3]

1960年東京大学文学部社会学科を卒業。1965年に同大学院博士課程単位取得退学後、東京大学教養学部専任講師に任官。1967年東京大学教養学部助教授に就任[4]。その後、メキシコ留学を経て、1982年教授東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授。東大の見田ゼミは、常に満席状態であった[5]1998年に定年退官後、共立女子大学家政学部教授に就任(総合文化研究所教授兼任)。2008年退任。

1985年1月?1986年末まで『朝日新聞』の論壇時評を担当したが、「画期的」「殻をやぶったユニーク」という好意的な意見と、期待外れだったという意見がある。

本人は論壇時評を担当した当時を振り返って、次のように語っている。「『資本主義共産主義か』というような20世紀冷戦的思考の枠組みから自由にならなければ、という予感が強くありました。当時出始めたポストモダン思想や、近代を問い返す動きも「人間主義の彼方」などとして取り上げた。一方『パルコ文化』など軽やかな現象も俎上にのせました。当時、大学教員の多くはリベラルを含む左翼だったから、随分言われたみたいですね。うわさは気にしない方ですが、言論空間というものの不自由さは結構感じました」[6]。詳細は「世界 (雑誌)#『朝日新聞』論壇時評との関係」を参照

2022年4月1日午後2時33分、敗血症のため東京都八王子市の病院で死去した[2]84歳没[1]
親族

長男は漫画家見田竜介、次男は漫画家、イラストレーター翻訳家の見田航介。憲兵大尉時代に甘粕事件大杉栄などの民間人を虐殺した陸軍軍人甘粕正彦は父の従兄。
研究歴

当初は、『現代日本の精神構造』(1965年)、『価値意識の理論』(1966年)など計量に基づく実証的研究を進めるが、1970年代はじめのメキシコ留学を経て、コミューン主義の立場からの著述活動を始める。

その後の見田の社会学は、カルロス・カスタネダ比較社会学がその中心に据えられ、時間論、自我論、関係論がその主題となった。時間論については『時間の比較社会学』(1981年)、自我論と関係論については『宮沢賢治 - 存在の祭りの中へ』(1984年)を助走として『自我の起原』(2001年)を完成させる。この『時間の比較社会学』と『自我の起原』の両著作は、見田の学問的営為の総体を駆動してきた原問題(すなわちニヒリズムエゴイズム)に納得いく解決を獲得させるものであった(なお、両著作は真木悠介の筆名による)。

また、1996年の『現代社会の理論』の中では、情報消費社会のダイナミズムと魅力の根拠を明らかにしながら、その必然の帰結である現在の危機を、自由な社会という原則を手放すことなく克服する方向を示した。

見田ゼミ出身の社会学者・研究者には、内田隆三吉見俊哉若林幹夫舩橋晴俊福岡安則亘明志江原由美子大澤真幸宮台真司小熊英二熊田一雄上田紀行中野民夫らがいる。

定年退職後「樹の塾」という私塾を開催し、毎年定員越えの盛況だったが、2017年に視力悪化のため休塾としている。
東大駒場騒動との関わり

教養学部社会科学科の科長であった1988年、後任教官の候補に、当時同学科教授西部邁が、東京外大AA研助手の中沢新一を助教授に推すが、学科間の感情的対立や社会科学科内の思惑から混乱が生じ、教授会で前代未聞の否決となる。西部は教授会に抗議して辞任。「中沢事件」 「東大駒場騒動」などと報道されて話題となる。見田は社会科学科科長として、当初人事案に賛成するも、その後中沢人事支持を記した文書と、教養学科第三(相関社会科学)委員長で社会科学科の人事委員長であった佐藤誠三郎教授に対する批判を理由に社会科学科の科長を辞任する旨を記した2通の文書を学部内に配布して科長を辞任した。その結果、人事案の提案母体である社会科学科内の不一致を学部内に印象付け、人事案件否決の流れを決定付けた。西部邁は見田の態度を日和見的だとして厳しく批判した[7]。見田は『朝日新聞』に寄稿し、中沢新一の仕事と才能が「近代のアカデミズムの[…]コンセプト自体を問い直すものである」と評した上で、大学人事の体制的な問題を指摘し、中沢人事自体は本質的な問題ではなく、「アカデミズムの意味を問い直す契機とすること」こそが重要であるとした[8]
受賞歴

1964年、
城戸賞(社会心理学) - 「現代における不幸の諸類型」(北川隆吉編 『現代社会学講座第Y巻、疎外の社会学』 有斐閣、1963年所収)

2012年、毎日出版文化賞(企画部門) - 「定本 見田宗介著作集」(全10巻、岩波書店


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