丸山古墳(まるやまこふん、五条野丸山古墳/大軽丸山古墳/見瀬丸山古墳)は、奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にある古墳。形状は前方後円墳。
実際の被葬者は明らかでないが、後円部墳頂は宮内庁により「畝傍陵墓参考地」(被葬候補者:第40代天武天皇・第41代持統天皇)として陵墓参考地に治定されている。また宮内庁治定部分を除く古墳全域は国の史跡に指定されている(指定名称は「丸山古墳」)。
奈良県では最大、全国では第6位の規模の巨大古墳で、大王墓としては最後の前方後円墳になる。 「丸山」という名のとおり、以前よりこの古墳は単なる円墳とされてきたが、下記調査のとおり極めて大規模な前方後円墳である。築造は6世紀後半と推定されるが埋葬者は不明。欽明天皇と堅塩媛の陵墓であるとの説もある。 古くは「五条野丸山古墳」と呼称されていた。明治時代になり「見瀬丸山古墳」の名称で呼ばれるようになったが、地元においては後円部は五条野町、前方部は大軽町が大部分を占めているため、「見瀬」を前置する呼称は適当でないとして現在でも丸山古墳と称されている。 古墳は丘陵上の傾斜地に設けられている。極めて大規模な前方後円墳であり、全長は318メートル、前方部高さ15メートル、幅210メートル、後円部の径155メートル、高さ21メートル、前方部の幅210メートルにおよぶ。これは景行天皇陵を上回って奈良県下では最大、日本全国においても河内大塚山古墳に次いで 6位の規模であり、古墳時代後期後半に築造されたものの中では最大の規模を誇っている。 また、横穴式石室の全長は28.4メートルで、全国第1位の規模である。羨道は一枚の長さ4.8メートルの巨大な自然石6枚で天井を覆い、長さ20.1メートル、幅1メートル以上、高さ1.5メートルほど。玄室の長さ8.3メートル、最大幅4.1メートル、高さ4.5メートルある。内部には刳抜式家形石棺が2基、L字型に直交するように置かれている。玄室内には約1メートルの土砂が堆積しており、石棺の身については詳細は不明だが、奥棺は蓋の長さが2.42メートル、幅1.44メートル、高さ0.42メートル。前棺は蓋の長さが2.75メートル、幅1.41メートル、高さ0.63メートル。材質は流紋岩質溶結凝灰岩で加古川付近の竜山石 通常石室は円墳の中央に置かれるが、丸山古墳では中央から20mほどずれている。石室を作る際の石が大型化する中、かつ横穴式を目指したことで、中央まで横穴を掘れなかったのではないかとする説もある。
概要
基礎データ
墳丘全景(東側)
墳丘全景(西側)
後円部の畝傍陵墓参考地入り口
後円部墳丘
後円部(前方部から望む)
前方部(後円部から望む、背景は畝傍山)
研究史『聖蹟図志』中の図を一部抜粋
左下が丸山古墳、右上は石室および石棺の詳細上空から見た丸山古墳(1948年当時)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
埋葬者が誰であるかは近世の江戸時代中期ころから論争があった。天武天皇と持統天皇の合同陵としては、丸山古墳とする説と、南西に1kmほど離れた場所にある野口王墓とする説とにわかれていた。
江戸時代後期から明治時代にかけて幾度か石室内部の調査が行われている。寛政8年(1796年)『惟徳実見記』で堤惟徳(つつみこれのり)は水が腰に及ぶ中、玄室の長さを3丈、幅1丈半と計測した。