この項目では、かつて埼玉県にあった沼について説明しています。現在の地名などについては「見沼 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
見沼(地図中水色)は現在のさいたま市東部に広がっていた現在の見沼田んぼ(見沼区加田屋一丁目付近)、中央の河川は加田屋川
見沼(みぬま)は、かつての武蔵国、現在の埼玉県さいたま市(北区・大宮区・見沼区・浦和区・緑区)と川口市に存在した巨大な沼である[1]。現在も広い緑地空間があり、「見沼田んぼ」と呼ばれている。 以下に、現在の見沼田んぼに該当する区域を挙げる。注記がない町字は全域が該当する。 縄文時代には古芝川が大宮台地を浸食した谷に、奥東京湾が入り込んでいた。このため、この地の周辺には貝塚が点在している。奥東京湾は弥生時代に入ると海岸線が後退し(海退という)、見沼・入江沼・鳩沼・深作沼(鶴巻沼)など多数の沼がつながる広大な沼沢地となった。見沼は三沼・箕沼・御沼とも表され、Y字型で3方向に湾曲して伸び、岬や入江も多い複雑な地形であった。氷川神社はこの沼の水神を祀ったことから始まったとする説があり、沼岸には氷川神社・中氷川神社(現中山神社)・氷川女体神社がある。 江戸時代に入ると、それまで手付かずであった見沼も開発が始まった。1629年、関東郡代の伊奈忠治が、多くの新田が開発された芝川下流域(現川口市)の灌漑用水を確保するために、木曽呂村・附嶋村(現:さいたま市緑区大字大間木字八町・附島付近と川口市木曽呂付近)に長さ8町(約870メートル)の堤防八丁堤を建設して水を溜め、このダムが作る灌漑用貯水池を見沼溜井と称した。平均水深8尺(約2.7メートル)、周囲10里(約40キロメートル)にも及ぶ溜井により、下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した(「水いかり」)。 1675年、江戸商人・加田屋の坂東助右衛門は、一部を干拓して新田を開拓するが、この干拓により溜井の一部を綾瀬川へ流下させたため貯水能力が低下、下流の村から新田取り潰しの訴訟が起き、結局1718年に溜井へ復元させられた。しかしながら土砂堆積で、溜井の貯水能力は低下の一途をたどり、水害も頻発するようになった。 享保年間、輪王寺6代・輪王寺宮4代、公寛法親王が江戸往来の途上、膝子村で水害に悩む村民から溜井廃止を懇願され、窮状が江戸幕府へ伝わった。
地域
芝川・見沼代用水西縁沿い
川口市 - 差間・行衛の各一部
さいたま市緑区 - 大間木の東部(飛地)・大牧(東部)・下山口新田(八丁堤以北)、蓮見新田・間宮(西部)・見沼・大崎(西部)・宮後、新宿、大道、三浦
さいたま市見沼区 - 片柳(南部)・見山・西山新田・西山村新田(一部)・東新井(一部)・中川(一部)・上山口新田・新右エ門新田・南中丸(一部)・大和田町(一部)・砂町
さいたま市浦和区 - 三崎・大原
さいたま市大宮区 - 北袋町(一部)・天沼町(東部)・堀の内町(東部)、寿能町(東部)
さいたま市北区 - 見沼・砂町・本郷町(東部)
加田屋川・見沼代用水東縁沿い
さいたま市緑区 - 南部領辻の西部
さいたま市見沼区 - 片柳(東部)・片柳東・加田屋・膝子(一部)・大谷(一部)・東宮下(一部)・新堤(一部)
歴史