見沼
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、埼玉県にかつてあった沼について説明しています。現在の地名等については「見沼 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2016年9月)


出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2016年9月)


脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2016年9月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年5月)


見沼(地図中水色)は現在のさいたま市東部に広がっていた 現在の見沼田んぼ(見沼区加田屋一丁目付近)、中央の河川は加田屋川

見沼(みぬま)とは、かつての武蔵国、現在の埼玉県さいたま市北区大宮区見沼区浦和区緑区)と川口市に存在した巨大なである[1]。現在も広い緑地空間があり、「見沼田んぼ」と呼ばれている。目次

1 地域

2 歴史

3 伝説

4 現代の見沼

4.1 見沼田圃の現在の土地利用


5 脚注

5.1 注釈

5.2 出典


6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

地域

以下に、現在の見沼田んぼに該当する区域を挙げる。注記がない町字は全域が該当する。

芝川見沼代用水西縁沿い

川口市 - 差間行衛の各一部

さいたま市緑区 - 大間木の東部(飛地)・大牧(東部)・下山口新田(八丁堤以北)、蓮見新田間宮(西部)・見沼大崎(西部)・宮後新宿大道三浦

さいたま市見沼区 - 片柳(南部)・見山西山新田西山村新田(一部)・東新井(一部)・中川(一部)・上山口新田新右エ門新田南中丸(一部)・大和田町(一部)・砂町

さいたま市浦和区 - 三崎大原

さいたま市大宮区 - 北袋町(一部)・天沼町(東部)・堀の内町(東部)、寿能町(東部)

さいたま市北区 - 見沼砂町本郷町(東部)


加田屋川見沼代用水東縁沿い

さいたま市緑区 - 南部領辻の西部

さいたま市見沼区 - 片柳(東部)・片柳東加田屋膝子(一部)・大谷(一部)・東宮下(一部)・新堤(一部)


歴史

縄文時代までは、古芝川が大宮台地を浸食した谷に、奥東京湾が入り込んでいた。このため、この地の周辺には貝塚が点在している。奥東京湾は弥生時代に入ると海岸線が後退し(海退という)、見沼・入江沼・鳩沼・深作沼(鶴巻沼)など多数の沼がつながる広大な沼沢地となった。見沼は三沼・箕沼・御沼とも表され、Y字型で3方向に湾曲して伸び、岬や入江も多い複雑な地形であった。氷川神社はこの沼の水神を祀ったことから始まったとする説があり、沼岸には氷川神社・中氷川神社(現中山神社)・氷川女体神社がある。

江戸時代に入ると、それまで手付かずであった見沼も開発が始まった。1629年関東郡代伊奈忠治が、多くの新田が開発された芝川下流域(現川口市)の灌漑用水を確保するために、木曽呂村・附嶋村(現:さいたま市緑区大字大間木字八町・附島付近と川口市木曽呂付近)に長さ8町(約870メートル)の堤防八丁堤を建設して水を溜め、このダムが作る灌漑用貯水池を見沼溜井と称した。平均水深8尺(約2.7メートル)、周囲10里(約40キロメートル)にも及ぶ溜井により、下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した(「水いかり」)。

1675年、江戸商人・加田屋の坂東助右衛門は、一部を干拓して新田を開拓するが、この干拓により溜井の一部を綾瀬川へ流下させたため貯水能力が低下、下流の村から新田取り潰しの訴訟が起き、結局1718年に溜井へ復元させられた。しかしながら土砂堆積で、溜井の貯水能力は低下の一途をたどり、水害も頻発するようになった。

享保年間、輪王寺6代・輪王寺宮4代、公寛法親王が江戸往来の途上、膝子村で水害に悩む村民から溜井廃止を懇願され、窮状が江戸幕府へ伝わった。

1727年、折りしも享保の改革の一環として新田開発を進めていた8代将軍徳川吉宗勘定吟味役紀州藩士・井沢弥惣兵衛を登用して見沼溜井の干拓を開始した。井沢は溜井に代わる水源として見沼代用水を現・行田市利根川から約60 kmにわたり開削して灌漑用水とする一方で、八丁堤を破り、溜井最低部に排水路を開削して芝川と結び、荒川へ放水する工事を1年で完成させた。

見沼干拓後は、加田屋など商業資本も加わった新田開発が進み、開発面積1,228 ha、新田面積1,172 haの見沼田んぼが完成した。それ以後、この地は肥沃な穀倉地帯となった。さらに見沼干拓に併せて、八丁堤跡に享保16年(1731年)に建設された見沼通船堀により、江戸とを結ぶ見沼通船が開通[1]、見沼代用水流域の川船輸送の発達にもつながった。

1934年昭和9年)、東京府東京市村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)に続く、第三の貯水池の建設場所を見沼田んぼ一帯とする計画を発表した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:38 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef