要石
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この項目では、地震を鎮める石について説明しています。アーチの頂部の石については「キーストーン」をご覧ください。
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要石に向かって祈りを捧げる人々

要石(かなめいし)は、茨城県鹿嶋市鹿島神宮千葉県香取市香取神宮三重県伊賀市大村神社宮城県加美町の鹿島神社に存在し、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石[1][2]
鹿島神宮鹿島神宮の要石

鹿島神宮の要石は、鹿島神宮奥宮(武甕槌神の荒魂)[3]の背後約50メートル、本宮より東南東約300メートル離れた、境内の森の中に位置する[4][5]花崗岩で、地上露出部分はほんの十数センチメートルであり[6]、凹んでいる[6]

鹿島神宮の要石は、「山の宮」、「御座石(みましいし)、石御座(いしのみまし)」と呼ばれる[6][7]日本神話葦原中国平定において、天津甕星(天香香背男)は平定の大きな妨げになった(日本書紀、巻第二神代下、第九段一書の二)[8]。天香香背男討伐にあたり、経津主神武甕槌神は建葉槌命を遣わす[9]日本書紀、巻第二神代下、第九段本文)[10][11]。鹿島神宮社伝によれば、武甕槌神は見目浦(みるめのうら)の磐座に降り、天香香背男討伐のため建葉槌命を派遣した[12]。神が降りた磐座が現在の要石[2]、住居が鹿島神宮の原型であると伝えられる[13]

『鹿島宮社例伝記』によれば、鹿島社要石は仏教的宇宙観でいう、大地の最も深い部分である金輪際から生えている柱と言われ、この柱で日本は繋ぎ止められているという[14]。同じような謂れを持つ場所に琵琶湖竹生島がある。また、日本書紀では「鹿島動石(ゆるぐいし)」「伊勢大神宮」など、漂う日本を大地に繋ぎ止める「国中の柱」とされる場所が全国に点在しているとされていた。『詞林采葉抄』などの文献資料から、神仏習合を経て14世紀中頃に要石のイメージは固まったと見られる[14]

古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、鹿島神宮と香取神宮の両宮を崇敬していた。1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。香取神宮史によれば、同年3月に同宮を参拝し、楼門前に桜を植えた[15]。その際に香取の要石を掘らしたが根元を見ることが出来なかったという[16]

1255年建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋たづねかね 今日見つるかな 千ち劒はや破ぶる 深山みやまの奥の 石の御座みましを」と詠んでいる[7][2]

江戸時代には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」で締めくくる呪い歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられるという風習があった。1596年の京都の公家日記『言経卿記』に、近畿地方で起こった地震の際に、余震避けとして3首の呪い歌が街中に貼られたという記録がある[17]

1855年10月安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れた。
香取神宮香取神宮の要石

香取神宮の要石の地上部分は丸い。香取神宮の要石は総門の手前にある[18]
大村神社大村神社の要石社

三重県伊賀市(旧・青山町)の阿保に所在する大村神社は、土地の守り神である大村神を祀る地震との関わりが深い神社であり、拝殿の西側に大鯰を抑える形で奉鎮されている[19]

また、近隣の名張市の下比奈知には、地震の神であるなゐの神を祀っていたとされている名居神社が存在する。
鹿島神社

宮城県加美町の鹿島神社にも要石があり、風土記によれば鹿島神宮のものを模したものだという。1973年にはまた別の要石が奉納され埋められた。

この鹿島神社は鹿島神宮と祭神は同じだが、他の多くの「鹿島神社」と違い、鹿島神宮ではなく塩竈神社からの勧請である。
各神社の関係大鯰にを打ち下ろす武甕槌大神

『香取神宮小史』によれば、葦原中津国平定において香取ヶ浦はなお「ただよへる國」「地震(なゐ)頻り」であった[20]。これは地中に大きなが住みついて荒れ騒いでいるためであった[16]。そこで香取と鹿島の大神は地中に深く石の棒をさし込み、大鯰の頭と尾を刺し通した[16]


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