西都市
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さいとし 
西都市
西都原古墳群の鬼の窟古墳
市庁舎位置


西都市旗
1968年10月23日制定西都市章
1961年4月1日制定

日本
地方九州地方
都道府県宮崎県
市町村コード45208-4
法人番号4000020452084
面積438.79km2

総人口27,587人 [編集]
推計人口、2023年5月1日)
人口密度62.9人/km2
隣接自治体宮崎市児湯郡高鍋町木城町新富町西米良村東臼杵郡美郷町椎葉村東諸県郡国富町
市の木ヤマモモ
市の花ミツバツツジ
市の鳥ウグイス
西都市役所
市長[編集]橋田和実
所在地881-0015
宮崎県西都市聖陵町二丁目1番地
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯32度06分31秒 東経131度24分05秒 / 北緯32.10853度 東経131.40136度 / 32.10853; 131.40136座標: 北緯32度06分31秒 東経131度24分05秒 / 北緯32.10853度 東経131.40136度 / 32.10853; 131.40136
外部リンク ⇒公式ウェブサイト

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一ツ瀬ダム国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成(1976年度撮影)

西都市(さいとし)は、宮崎県県央地域に位置する。日本最大級の古墳群である国の特別史跡西都原古墳群や、日向国主伊東氏の居城都於郡城で知られる。
地理 西都市中心部周辺の空中写真。
2008年10月15日撮影の3枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

宮崎県で6番目の面積を持つ市であり、市域の7割が山岳地帯である。

市を北西から南東に向かって、一ツ瀬川が貫流している。上流部では無数の小川が渓谷を刻み、それらの流れが集まって、九州最大の貯水量を誇る一ツ瀬ダム(米良湖)となっている。下流は宮崎平野が広がり、園芸農業、畜産業が盛んであるほか、西岸の洪積層台地には西都原古墳群が広がる。

中心市街地は都萬(つま)神社の南方に広がる妻(つま)地区。

山: 樋口山、掃部岳

河川: 一ツ瀬川、桜川

湖沼: 米良湖、稚児ケ池

ダム: 一ツ瀬ダム

隣接している自治体

宮崎市

児湯郡高鍋町木城町新富町西米良村

東諸県郡国富町

東臼杵郡美郷町椎葉村

地名

合併時の大字は以下のとおり。

岡富(旧妻町)

清水(旧妻町)

黒生野(旧妻町)

現王島(旧妻町)

妻(旧妻町)

右松(旧妻町)

三宅(旧妻町)

調殿(旧上穂北村)

童子丸(旧上穂北村)

穂北(旧上穂北村)

南方(旧上穂北村)

荒武(旧都於郡村)

岩爪(旧都於郡村)

鹿野田(旧都於郡村)

都於郡町(旧都於郡村)

山田(旧都於郡村)

平郡(旧三納村)

三納(旧三納村)

加勢(旧三財村)

上三財(旧三財村)

寒川(旧三財村)

下三財(旧三財村)

藤田(旧三財村)

尾八重(旧東米良村)

上揚(旧東米良村)

銀鏡(旧東米良村)

中尾(旧東米良村)

八重(旧東米良村)

その後、以下の大字が新たに発足した。

茶臼原(1957年、穂北より分立)

片内(1958年、三納より分立)

1970年代、中心部の妻地区で町名設置が行われた。

桜川町1丁目?2丁目(1974年、妻・右松より分立)

聖陵町1丁目?2丁目(1974年、妻より分立)

御舟町1丁目?2丁目(1974年、妻・右松より分立)

有吉町1丁目?3丁目(1977年、妻より分立)

小野崎町(1977年、妻より分立)

白馬町(1977年、妻より分立)

中央町1丁目?2丁目(1977年、妻より分立)

妻町1丁目?3丁目(1977年、右松・妻より分立)

水流崎町(1977年、妻より分立)

その後、1990年代前後(詳細は不明)に以下の町名が設置された。

旭1丁目?2丁目(右松・妻・調殿より分立)

小野崎1丁目?2丁目(右松より分立)

上町1丁目?2丁目(右松・妻・調殿・三宅より分立)

下妻(右松より分立)

中妻1丁目?2丁目(妻・調殿より分立)

右松1丁目?5丁目(右松より分立)

新町1丁目?2丁目(2003年、妻・右松・三宅・童子丸より分立)

歴史

記紀によると、天照大神の孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は日向の高千穂峰に降臨した。その後、居を構えたのが現在の西都市であったとされる[要出典]。

西都市は日本最大の古墳集積地帯である。

律令期には現在市の中心部となっている妻(つま)地区に日向国国府、日向国分寺、国分尼寺が置かれ、日向国の中心地として栄えた。室町時代?戦国時代には日向国主伊東氏が市南部に都於郡城を構え本拠地とし、領国経営の拠点とした。天正遣欧少年使節主席正使としてヨーロッパに渡った伊東マンショは、都於郡城で生誕した伊東氏の一族である。薩摩国の島津氏からの侵略により伊東氏が一時衰退した際、都於郡城には島津義久が入城し、豊臣秀吉九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は根白坂の戦いにおいて豊臣秀吉に完敗し日向国から放逐され、都於郡城は戦後廃城となった。

江戸時代は、穂北に幕府の番所が設けられ妻・穂北(ほきた)地区は幕府の天領となり、三財(さんざい)・三納(みのう)・都於郡(とのこおり)地区は佐土原藩に組み入れられた。この時期には伊東氏飫肥藩領の赤江・城ヶ崎地区(現宮崎市赤江地域自治区)が、日向国の江戸上方との交易本拠地としての性格を備え、西都地区は日向国の物流拠点としての機能を次第に失ったようである。また、市の中心に横たわり、市名の由来でもある西都原(さいとばる)台地は、古代より斉殿原(さいとのはる)と呼ばれていたが、江戸時代に西都原(「さいとのはる」から「さいとばる」へ)の呼称が定着したとされる。児湯郡東米良村の一部は米良山であった。米良山は元和年間(1615年-1624年)に人吉藩の属地とされ、廃藩置県(1871年)の際には人吉県(後に八代県、球磨郡の一部の扱い)となり、1872年に美々津県(宮崎県の前身)児湯郡に移管された。その為、1872年まで現在の西都市寒川、尾八重、中尾、八重、銀鏡、上揚の各地区は球磨郡(当時の球磨郡)の寒川谷村、猪窪谷村、岩井谷村、尾八重谷村、椎葉谷村、鳥巣谷村、東八重谷村、銀鏡谷村、登山谷村、杖山谷村、浜砂谷村、横平谷村であった。


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