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日本の政治家西郷 菊次郎さいごう きくじろう
生年月日1861年2月11日
(万延2年1月2日)
出生地 琉球王国 奄美大島龍郷
(現・ 日本 鹿児島県大島郡龍郷町)
没年月日 (1928-11-27) 1928年11月27日(67歳没)
死没地 日本 鹿児島県鹿児島市
前職外務省職員
現職永野金山鉱業長
称号従五位
勲四等
勲二等太極章
配偶者西郷久子
子女六男・西郷準
西郷隆秀
親族父・西郷隆盛(参議)
叔父・西郷従道(内務大臣)
異母弟・西郷寅太郎(貴族院議員)
従弟・西郷従徳(貴族院議員)
従弟・西郷豊彦(貴族院議員)
従弟・上村従義(貴族院議員)
甥・西郷吉之助(法務大臣)
第2代京都市長
在任期間1904年10月12日 - 1911年7月13日
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西郷 菊次郎(さいごう きくじろう、1861年2月11日〈万延2年1月2日〉 - 1928年〈昭和3年〉11月27日)は、日本の政治家、外交官。 遠島の身分であった時代の西郷隆盛と愛加那の長男として、万延2年1月2日(1861年2月11日)、奄美大島の龍郷で生まれた。同父母妹に菊草がいる。異母弟に嫡弟の寅太郎、午次郎
生涯
幕末
9歳で鹿児島の西郷本家に引き取られ、12歳でアメリカへの留学の途についた。2年6ヶ月に及ぶ留学生活を終え、帰国して3年後の17歳のとき、西南戦争に薩軍の一員として参戦。延岡・和田越えの戦闘にて右足に銃弾を受け膝下を切断。和田越えの戦闘で多数の死傷者を出した薩軍は俵野に陣を移し、今後の動向について軍議を重ねた。
その結果、可愛嶽を越えて三田井に抜ける事を決意。戦闘にて重傷を負っていた菊次郎は、桐野利秋の計らいにて他の負傷兵と共に俵野に取り残した。その際に隆盛の老僕であった、永田熊吉をつけておいた。熊吉は、負傷した菊次郎を背負い、隆盛の弟である西郷従道のもとへ投降した。従道は甥の投降を喜び、熊吉に礼を言ったとされる。
菊次郎が療養し父の隆盛と別れた延岡市北川町長井には「菊次郎加療の地」の案内板がある[1]。 西南戦争後、23歳で外務省に入り、アメリカ公使館や本省で勤務。1887年(明治20年)6月に再びアメリカへの留学。新渡戸稲造から情報を得て、彼と同じジョンズ・ホプキンス大学政治学科に在籍した[2]。右足の宿痾により留学を中断し、帰国の後、23年1月宮内省式部官。日清戦争で日本が台湾を得た1895年(明治28年)、台湾に転じ、基隆支庁長、宜蘭長官(4年半)に就任。日本に帰国後、京都市長(6年半)などの任にも就く。 京都市長在任期間は約7年間におよびこの期間に「京都百年の大計」として京都市三大事業「第二琵琶湖疏水(第二疏水)開削」、「上水道整備」、「道路拡築および市電敷設」を推進した。巨額を要する三大事業の財源が大きな困難として立ちはだかったが、1909年(明治42年)6月に三井銀行の協力を取り付けてフランス・パリのシンジケート引き受けで4,500万フランの外債を発行して資金を調達した。 1911年(明治44年)、病気を理由に京都市長を辞職した。辞任後、鹿児島県に帰郷したが、その功績により多額の慰労金が京都市より贈呈されることがきまり、療養中の菊次郎がそれを受け取り、感謝する旨の助役あての書翰が残っている[3]。1年の療養ののち1912年(明治45年)7月、島津家管理の永野金山鉱業長に就任した。在任中は夜学校を開き、自費で武道場を建てるなど、青少年人材育成と地域づくりに多大な貢献[4]をし、在任8年目の1920年(大正9年)に辞職した。 1928年(昭和3年)11月27日に鹿児島市薬師町の自宅で心臓麻痺により死去した。満67歳没。墓所は鹿児島市西郷家墓地。
明治
年譜西郷庁憲コ政碑(台湾宜蘭県宜蘭市)
1861年(万延 2年) 1月2日 - 西郷隆盛と龍一族佐栄志の娘”愛加那”の長子として奄美大島龍郷にて誕生。
1869年(明治 2年)- 鹿児島市の西郷本家に引き取られる。
1872年(明治 5年)- 12歳にしてアメリカ合衆国に留学。農業学を学ぶ。
1877年(明治10年)- 西南戦争に従軍。右足を被弾し膝から下を失う。叔父で陸軍中将の西郷従道の元へ投降。
1884年(明治17年)- 外務省入省。米国公使館勤務。
1887年(明治20年)- 再度アメリカ合衆国留学
1890年(明治23年)10月24日 - 宮内省式部官、奏任官三等[5]
1895年(明治28年)- 台湾台北県基隆宜蘭支庁長に就任
1897年(明治30年)- 台湾宜蘭庁長官に就任
1904年(明治37年)10月12日 - 2代目京都市長に就任
1912年(明治45年)- 島津家山ケ野金山鉱業館長に就任。
栄典・授章・授賞
位階
1886年(明治19年)7月8日 - 正八位[6]
1898年(明治31年)10月21日 - 従六位[7]
1900年(明治33年)12月27日 - 正六位[8]
1928年(昭和3年)11月27日 - 従五位[9]