この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "西郷吉兵衛"
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年5月)
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月)
凡例西郷 吉兵衛
時代江戸時代末期
生誕文化3年(1806年)
死没嘉永5年9月27日(1852年11月8日)
別名幼名:小吉、通称:九郎
戒名自覚院祖栄忠道居士
墓所鹿児島市常盤二丁目 西郷家の墓[1]
幕府江戸幕府
藩鹿児島藩士(城下士)
氏族西郷氏
父母父:西郷隆充、母:四本氏
兄弟吉兵衛、大山綱昌、他
妻政佐
子隆盛、琴、吉二郎、鷹、安、従道、小兵衛
テンプレートを表示
西郷 吉兵衛(さいごう きちべえ)は、幕末の薩摩藩の鹿児島城下士。通称は初め九郎、のち吉兵衛。諱は隆盛。西郷隆盛・従道兄弟の父。
家格御小姓与。勘定方小頭を務めていた。 文化3年(1806年)西郷隆充の長男として誕生した。文化11年(1814年)8月28日、弟の西郷小兵衛[注釈 1]とともに藩主島津斉興に初御目見する。文政10年12月7日(1828年1月23日)、長男・小吉(のちの西郷隆盛)が誕生する。 天保5年(1834年)1月26日、通称を九郎と改める。天保6年(1835年)6月19日、弟・小兵衛が大山綱毅の養子となる。弘化2年(1845年)11月15日、御勘定方小頭となる。弘化4年(1847年)6月20日、父の隠居により家督を相続する。なお、「詳説西郷隆盛年譜」では4月に家督相続届けを出し、5月15日許可とある。また、当時の石高は47石余り。嘉永2年(1849年)3月15日、相続の御礼をなし、吉兵衛と改める。 嘉永2年12月3日(1850年1月15日)お由羅騒動。赤山久晋の死を見届ける。嘉永5年(1852年)7月18日:父・隆充死去。嘉永5年(1852年)9月27日、死去。当時の石高は41石余り。墓所は曹洞宗松原山南林寺の墓地、のち常盤町のほうに改葬。
経歴
家族・親族
父:西郷隆充
母:四本氏(四本大清院の妹、四本義照の姉)
兄弟:大山綱昌。他に夭折した姉妹もあり。
妻:椎原政佐
子女
長男:西郷隆盛
長女:琴
次男:西郷吉二郎
次女:鷹
三女:安…綱昌の長男・大山成美
三男:西郷従道
四男:西郷小兵衛
エピソード
吉兵衛はお由羅騒動で赤山靭負の介錯をしたという説があるが、これは誤りで、実際は剣豪家の加藤新平に頼んだという説もある。