この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年10月)
西部戦線概観 (1861年–1865年)
南北戦争の西部戦線(せいぶせんせん、英:Western Theater of the American Civil War)は、アメリカ合衆国のミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域で北軍と南軍が激突した戦線である。東部戦線とは地理的懸隔もあってやや独立した動きとなっていたが、戦争(1861年-1865年)の後半は東部との連係が重要な課題となった。 西部戦線の戦場は地理的なことと作戦の流れで定義される地域である。当初はミシシッピ川から東、アパラチア山脈から西の地域で表された。メキシコ湾岸や東海岸での作戦は除外されていたが、1864年から1865年にかけて、ウィリアム・シャーマンの指揮する北軍がテネシー州チャタヌーガから南東に動き、ジョージア州や両カロライナ州の領域まで拡がった。この領域よりも南西での作戦については、ミシシッピ川流域戦線で概説する。 西部戦線は南北戦争の戦線の中でもある意味で最も重要なものになった。南軍は限られた資源で広大な地域を防衛することを強いられ、北軍は南部の農業の中心地に直接繋がる川を辿って複数の経路から進入した。ミシシッピ川を支配することは、北軍のウィンフィールド・スコット将軍が提唱するアナコンダ計画の中でも重要な鍵であった。バージニアの戦線は遙かに栄誉を重んじる戦場である。...しかし、戦争の行方はそこで決まったのではなく、アパラチア山脈からミシシッピ川まで拡がる広大な大地、そしてさらに川の向こうで決まった。西部戦線は真に決定的な戦闘が戦われた。スティーブン・ウッドワース、「ジェファーソン・デイヴィスとその将軍達」[1] 東部戦線は当時もその後の歴史的な整理の段階でも、西部戦線よりかなり多くの注目を集めた。これはその対立する両軍の主要都市が近く東部の大都市に大きな新聞の発行所が集中しており、ロバート・E・リー将軍やストーンウォール・ジャクソン将軍のような東部で名声を博した人物がいたからでもある。このために北軍が西部で南軍を叩き、南部の領土を侵略していったことは、ほとんど気付かれないままであった。 軍事面の歴史家J. F. C.フラーは西部戦線を表現して、車の左の車輪がケンタッキー州に始まり、ミシシッピ川を下り、続いてテネシー州を通って東にジョージア州や両カロライナ州に至る大きな回転運動であるとした。チカマウガの戦いや騎兵あるいはゲリラによる幾つかの大胆な襲撃は例外として、西部戦線での4年間はほとんど南軍が負け続けたことが特徴である。戦術的には引き分けても戦略的には後退であった。この戦線で成功した北軍の将軍達、ユリシーズ・グラント、ジョージ・ヘンリー・トーマス、ウィリアム・シャーマンおよびフィリップ・シェリダンは常に南軍の対抗者を凌ぎ続けた(例外といえば南軍の騎兵指揮官ネイサン・ベッドフォード・フォレストくらいだろう)。
概要