西遊記
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この項目では、中国の白話小説について説明しています。その他の用法については「西遊記 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
『西遊記』の登場人物を描いた絵画(頤和園)。京劇の『西遊記』。

西遊記

中国語
繁体字 西遊記
簡体字 西游?

発音記号
標準中国語
漢語?音X? You Ji
ウェード式Hsi-yu chi
IPA[?í jǒ? t?î]
注音符号????????
呉語
ローマ字Si yo? dz?
粤語
粤?sai1 jau? gei3
?南語
台湾語ローマ字Se iu ki

朝鮮語
ハングル???
漢字西遊記
ベトナム語
ベトナム語Tay du ky
ハンノム西遊記
タイ語
タイ語??????

『西遊記』(さいゆうき、繁体字: 西遊記; 簡体字: 西游?; ?音: X? You Ji; ウェード式: Hsi-yu chi; 粤?: sai1 jau? gei3、タイ語: ??????、ベトナム語: Tay du ky)は、中国16世紀の時代に大成した白話小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空猪八戒沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。中国四大奇書に数えられる。著者は、『淮安府志』(天啓年間成立)に、呉承恩1504年頃 - 1582年頃、江南省出身)の著書として「西遊記」という書名が記述されていることから、彼が作者であると20世紀の中国では定説化していたが、批判的な説が存在し、明確な結論は出ていない。詳しくは後述(#原作者の謎)。

『西遊記』の流行を受けて、明代から清代にかけ呉元泰、呉政泰と余象斗が、仏教道教に関わる戯曲・雑劇と神話伝説に基づいて編纂したのが『東遊記』・『南遊記』・『北遊記』で『四遊記』と称される。
概要

の時代に中国からインドへ渡り仏教経典を持ち帰った玄奘三蔵の長年の旅を記した地誌『大唐西域記』を基に、道教仏教の天界に仙界、神やや妖怪や仙人など、虚実が入り乱れる一大白話小説であり、物語の縦軸に玄奘三蔵の波乱の人生を、横軸に無敵の仙猿・孫悟空の活躍を置き、玄奘三蔵一行が天竺を目指し取経を果たすまでを描いている。

『西遊記』には人間の登場人物として玄奘三蔵や唐の太宗皇帝など実在の人物が顔を並べるが、書かれている内容は完全にフィクションであり、史実とは一致しない。 また、『西遊記』を映像化・舞台化する場合には主要な登場人物が男性のみとなってしまうことから、日本では、中心人物の一人である三蔵法師役には男性ではなく、まれに女性が当てられる。
成立
唐三蔵西天取経伝説敦煌の洞窟に残された9世紀頃の壁画

現実の玄奘三蔵の取経の旅は西暦629年から645年に行われた。その事績が仏教徒の間で伝説化し神聖視された痕跡が各地に残されている。

敦煌莫高窟から発見された絹本、紙本の絵画及び壁画(9世紀から11世紀半ば)には、経巻を背負い虎を伴った徒歩の行脚僧の描かれたものがあり、伝説化した玄奘とする説がある。これらの中には宝勝如来を上隅に描き入れているものがあり、「寳勝如來一?」と書き入れられたものもあることからこの取経者は宝勝如来に保護され、また宝勝如来と同一視されたと推定される。

莫高窟東方約 100 km の楡林窟、その更に東方約 30 km の東千仏洞の水月観音図、普賢変図(12世紀後半、西夏末)に含まれる玄奘取経図に描かれた玄奘は猴(マカカ属のサル)と馬を伴っており、また張世南『游宦紀聞』(1228年)所収の張聖者の詩(北宋末から南宋初、12世紀前半と推定される)には「幾生三藏往西天」「苦海波中猴行復」「沈毛江上馬馳前」の字句が見え、12世紀には玄奘の取経伝説には猴と馬が取り込まれていたことが分かる。1237年に建立された福建省泉州の開元寺の仁壽塔(西塔)第四層南面には「梁武帝」に向き合って経文を捧げる「唐三藏」、東北面には刀を手にした猴行者と金箍棒を手にした「東海火龍之太子」の浮き彫りがあり、それぞれ「」内の文字が銘文にある(猴行者は銘文無し)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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