西谷藩(にしやちはん)は、江戸時代前期の徳川綱吉の時代にごく短期間、能登国に置かれた藩。1698年、徳川譜代の名門である水野家(備後福山藩10万石)が無嗣により改易された際、同族の水野勝長による名跡継承が認められ、1万石が与えられて成立した。水野家が能登の領地を知行したのは2年あまりで、1700年には下総結城藩に転出した。 忠重 元禄11年(1698年)5月5日、備後福山藩10万石の藩主水野勝岑は、2歳で早世した[1][2]。福山藩は無嗣により改易とされ、城地は収公された[1][2]。しかし、旧福山藩主水野家は譜代の名門であることから(徳川家康の母方叔父にあたる水野忠重の末裔で、水野氏一族の宗家とされる)、5月30日に「先祖の旧勲」によって一族の水野勝長(20歳)が名跡を継ぐことが認められ、能登国内で1万石が与えられることとなった[1][2]。水野勝長の父は、1500石の旗本である水野勝直
藩史
勝成1
勝俊2勝則勝忠
勝貞3勝寿勝直
勝種4長福勝長
勝岑5
数字は福山藩主就任順。
備後福山藩水野家の断絶「水野勝岑」も参照
なお、福山では勝長が跡目を継ぐことに不満を抱いた藩士らが、藩の番頭を務めていた水野'"`UNIQ--templatestyles-0000000C-QINU`"'勝寿(かつひさ)
(水野勝成の五男[注釈 2]・水野勝則の子[3])[注釈 3]を後継とすべく、籠城を企てる騒動もあった[6](水野勝岑参照)。勝長に与えられた知行地は、能登国にあった幕府領(能登天領)61か村[注釈 4]・約1万3000石[9]のうちから割かれたもので、鹿島・鳳至・羽咋・珠洲4郡にまたがって散在する46か村であった[9]。この能登天領は、もと陸奥窪田藩土方氏の飛び地領であったが、貞享元年(1684年)に窪田藩が改易された際に幕府領になったという経緯がある。元禄2年(1689年)から元禄8年(1695年)にかけては49か村が割かれて鳥居忠英領(能登下村藩)になっており、鳥居家の転出後ふたたび幕府領に復した[9]。この能登下村藩も、譜代の名門の家名存続のための措置という成立事情があり、鳥居家領(能登下村藩領)と水野家領(西谷藩領)は大部分が重なっている[7][注釈 5]。
「西谷」という藩名(居所名)は、羽咋郡釶内(なたうち)郷西谷(西谷内(にしやち)。現在の七尾市中島町西谷内)を居所としたことに由来する[10][注釈 6]。西谷村には中世に西谷内城(西谷城、西ヶ谷城)が所在し、畠山氏の有力な一族(西谷内畠山氏[注釈 7])が在城していたとも伝えられる[注釈 8][11]。しかし、西谷村は加賀藩領であり[12][注釈 9]、西谷村に水野家(西谷藩)の陣屋が置かれたという説明には疑問も呈されている[10]。