西谷祥子
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西谷 祥子(にしたに よしこ、1943年10月2日[1] - 、本名:山田 祥子)は、日本漫画家高知県高知市生まれ[2]。高卒後、長期の漫画家の後で中央大学法学部法律学科卒業[2]。代表作に『マリイ・ルウ』『レモンとサクランボ』『ジェシカの世界』『花びら日記』など[1]

昭和40年代前半、少女漫画週刊誌時代を迎える中で、青春ラブコメ学園もの、等身大の少女を描き出し、ジャンルを広げるエポックメーキングな作品を多数発表した[3][4]
概要

世代的には、水野英子などのトキワ荘世代・女流草分け世代の後、昭和40年代少女雑誌のマンガスクール世代の前にはさまる。

学園漫画の開拓者と見られ、また自認もしている。恋愛要素の強い学園ものの始まりともいわれるが、学園を場とする同世代群像、また世界を意識的に考える少女の姿、を持ち込んだことも大きな特徴である。一方で、少女漫画が週刊誌化によって1960年代後半に急発展した時期、その初期の集英社少女漫画雑誌を人気の点で支えた代表作家の一人であり、作品の連載を2週刊誌で最もほぼ絶え間なく長く続けた人物でもある。

他にも作風は広く、少女趣味的ファンタジーから男性作家の書くかのような大河ロマン、SFから深い心理の問題作までを高いレベルで発表している。とくに月刊・季刊誌の読み切り作品は当時としては文学的とも言えるほど対象年齢が高く、当時としては野心的なテーマも多く、彼女の代表作にむしろ短編を上げる人もいるが、単行本未収録のものが多い。この実質青年女性漫画というべき短編代表作の時期は青年漫画誌の創刊期でもある。

彼女の一部の作品と作風が少女漫画の最先端の一つであった時期は、1960年代後半から1970年代の始まり頃である。
来歴

高知県高知市生まれ。父、母、兄2人の5人家族で、末っ子の女の子として可愛がられて育つ[5]。父と長兄は絵が上手であったことと、手塚治虫山川惣治小松崎茂などが寄稿していた当時の少年雑誌が家にあったことにより、様々な影響を受けながら子供時代を送った[5]。小学校高学年の時に『赤毛のアン』に出会い、主人公アンの自力で夢の達成を目指す勇気に感銘を受け、この経験がなければ、後の作品制作において少年文化志向の感覚を持ったまま中性的な少女を描いていたかも知れないと語っている[5]。また、そんな頃に貸本屋でトキワ荘の面々による漫画にも出会い、とりわけ石ノ森章太郎水野英子の作品を好んだ[5]

中学3年生の時に手塚治虫に4コマ漫画を送り、作品を見てあげるとの返事を得る[5]。そしてその頃トキワ荘のメンバーによる短篇貸本誌『えくぼ』の内容に抗議の手紙を送ったことから、石ノ森章太郎が中心となって活動している「東日本漫画研究会」の女子部に誘われ、初代リーダー[2]として肉筆回覧誌『墨汁二滴[注釈 1]の編集や会員との連絡などを取り仕切った[5]。そして、『墨汁二滴』を見た『少女クラブ』より原稿の依頼を受けることとなる[5]

高校在学中の1961年、『墨汁二滴』に掲載していた『ふたごの天使』が講談社の『少女クラブ』夏の増刊号に掲載されデビューし、そのまま連載となる。高校卒業後、漫画で生計を立てられない場合を考えて1年間かけて母親の店で美容師の免許を取得してから上京[2][6]

1965年に活動の場を講談社から集英社の『週刊マーガレット』に移し、水野英子の『白いトロイカ』のアシスタントをしながら『リンゴの並木道』を執筆し、好評を博する[5][7]。水野の作品に登場する青年男女の世界に新鮮さを感じていたが、『リンゴの並木道』の読者の若さを考え、主人公の年齢を下げて『マリイ・ルウ』を執筆。再び好評を得たことを受け、自身の学園生活や知人友人をモデルとした『レモンとサクランボ』を発表、大ヒットとなる[5]

以後最盛期を迎え、週刊誌で2本の作品を連載してそれをヒットさせ、月刊誌で自分の好きな作品を描くという状態が続いた。月300枚以上の執筆をこなし、多忙を極めると1か月は風呂にも入れなかった[6]1980年代初めまでの長期間にわたって同誌のレギュラー作家として活動。他に『週刊セブンティーン』『ぶ?け』(以上集英社)、『花とゆめ』『LaLa』(以上白泉社)などでも執筆を行った。

その後、大学を卒業し結婚して専業主婦となる[2]。1988年の時点で、漫画の執筆活動を行っていない理由は、世の中が求めているものがわからないためであるとしていた[6]。2001年時点では、インターネット上にホームページを作成して作品発表の場とする計画があったが何度か頓挫していた[8]

2000年12月に三鷹市美術ギャラリーで山田祥子展「このごろの私の絵」を開催[9]

2018年には京都国際マンガミュージアムにて、竹宮恵子監修による「幻想と日常の間?西谷祥子・おおやちき・波津彬子」展が開催された[10]
評価・影響

萩尾望都は、自分のデビュー(1969年)前の時期に少女誌で自己表現を行っていたのは彼女ぐらいと語っている[11]。作風は一般に青春群像的な傾向が強く(とくに前期長編作品)、作者は登場人物達は自分の分身であるといい、主人公は狂言回しであるともいう[8]。またセリフその他に文学趣味を感じる読者も多く、とくに繊細で重い代表的な読み切りにその傾向がある。多様な形式をまとまりよく描き分けている。

作者の人気作家時代の回想として、週刊誌で人気を取って読み切りで好きなものを描いた[8]、という。また初期の彼女は、「石森章太郎石ノ森章太郎)と水野英子の間にかってに生まれた私製児(≠私生児)」と自分を位置付けていたという。

当時を知る人の細かい感想として、たとえばデビュー当時(1965年の白鳥の歌)、マンガ家になる前のみなもと太郎が見て、その色気を含む描線[12]が新鮮だったという。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また瞳の中に窓の反射のような縦横線のある光を入れる描き方を他の漫画家達(上原きみ子など)が利用していたという。[要出典]

竹宮惠子が漫画家になるための後押しをした人物でもある。『墨汁二滴』の活動を通して西谷を知っていたデビュー前の竹宮惠子に、西谷は漫画賞に応募することを手紙で促し、竹宮は投稿しデビューすることとなった[13]

アシスタントの中には、西谷のファンであったデビュー前の岡田史子がいた[14]
エピソード

最も多忙な頃は税金に対する知識がなかったため、ある日訪れた税務署の職員に500万円の追徴金を納めるよう告げられ、大変慌てる事態となった。当時の物価にして家が一軒買える金額であったという
[6]


集英社から刊行されている単行本レーベル「マーガレットコミックス」の最初のタイトルのひとつは、西谷の作品『マリイ・ルウ』(MC 1)であった(1968年1月5日初版発行、発売は1967年12月)。

主な作品
連載

かっこ内の単行本レーベルは最初に刊行されたものを記している。後に別のレーベルから刊行された作品もある。掲載号は表題作についてのみ明記。

マリイ・ルウ(集英社〈マーガレットコミックス〉、1968年、全1巻)

週刊マーガレット1965年44号 - 1966年1号掲載。

欧米ハイスクールものラブコメディ。当時そのファッション性にも注目が集まった。

レモンとサクランボ(マーガレットコミックス、1968年、全1巻)

週刊マーガレット1966年21号 - 41号掲載。

学園もの分野を拓いたといえる作品。日本の高校が舞台。


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