西谷墳墓群
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西谷墳墓群

整備中の出雲弥生の森公園
所在地島根県出雲市大津町字西谷
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度21分31.01秒 東経132度46分48.69秒 / 北緯35.3586139度 東経132.7801917度 / 35.3586139; 132.7801917
形状四隅突出型墳丘墓など
規模墳丘墓27基など
出土品弥生土器、鉄剣、ガラス玉など
築造時期弥生時代後期?奈良時代
史跡国指定
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西谷墳墓群の航空写真
(1976年撮影・国土航空写真).mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}西谷墳墓群

西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)は、島根県出雲市大津町字西谷にある弥生時代から奈良時代の墳墓群。国の史跡
概要

出雲市街南東部の標高40m程度の丘陵に存在する。弥生時代後期の弥生墳丘墓古墳時代古墳横穴墓群、奈良時代の火葬墓などからなる。1953年に発見され、2018年現在で27号までと番外5号までの32基の墳墓と横穴墓群が確認されている。このうち、1?4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地域を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、出雲地域ではこの西谷墳墓群や安来市荒島墳墓群に多く見られる。
調査の経緯と史跡指定

1953年(昭和28年)、出雲市大津町下来原(しもくりはら)字西谷の丘陵地で、出雲市立第一中学校の生徒によって散乱している土器片が発見された。この土器片は1956年(昭和31年)、同中学校の教員により「下来原西谷丘陵土器」として報告され、出土地点が「西谷丘陵遺跡」と名付けられた[1]。この出土地点は、今日では西谷4号墓と呼ばれている[2]

1971年(昭和46年)に島根県立出雲商業高等学校の移転に伴う島根県教育委員会による事前分布調査により、1号墓・4号墓・5号墓が確認された[3]

1972年(昭和47年)、出雲市教育研究会による1号墓の緊急発掘調査で、これが四隅突出型墳丘墓であることが確認された[3]。同年、8号墓が調査前に破壊されている[4]

その後、1980年までに島根県教育委員会や出雲考古学研究会の調査により計17基の墳墓が確認され、出雲考古学研究会がその成果を『西谷墳墓群』にまとめ刊行した[4]。なお、これまで「来原古墳群」もしくは「西谷古墳群」と呼ばれていたこの遺跡は、同文献内で提唱されて以来「西谷墳墓群」と呼称されるようになる。

1983年(昭和58年)から1992年(平成4年)にかけては、島根大学考古学研究室を主体に3号墓を中心に発掘調査が行われ、弥生土器水銀朱、柱穴など祭祀の痕跡が確認された[5][6]

1991年から1992年にかけて、農道工事にともない15・16号墓が発見・調査(記録保存)された[7]

2000年3月30日に国の史跡に指定された[8]

2004年の西谷墳墓群史跡公園「出雲弥生の森」オープンと2010年の西谷墳墓群のガイダンス施設「出雲弥生の森博物館」オープンに前後して、いくつかの調査が行われている[3][6][9][10][11][12][13][14]。施設については後述する(→西谷墳墓群#施設)。
各墳墓の概要

27基の墳丘墓(弥生墳丘墓・古墳)、3基の石棺墓、3基の土壙墓、第1支群?第3支群に計21穴の横穴墓群、そして正確な場所が不明な1基の火葬墓がある。墳丘墓のうち1?4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。これらは共通して斜面の貼石などの配石構造を有する。その他の墳丘墓として17基の方形墓、4基の円形墓がある[注釈 1]。以下、墳丘墓(1号墓?27号墓)を中心に記述する[14]
四隅突出型墳丘墓
1号墓
弥生時代後期後葉(2世紀後半)の四隅突出型墳丘墓
[10]。土砂崩れと採土のため半分以上が失われ、南側のみが残る[4]。規模は不明であるが一辺15メートルを超えないものと推測され、西谷墳墓群の四隅突出型墳丘墓では最も小規模なものである[3]。内部主体は4個確認され、いずれも木棺直葬と考えられる土壙である[4]。1号墓の北西側に番外1号墓と呼ばれる古墳時代前期の土壙墓と、番外2号墓と呼ばれる時期不明の土壙墓(内部に箱式石棺)が存在する[10]。盛土のうえ東側突出部とその周辺の形状を復元する形で整備されている[14]
2号墓
弥生時代後期後葉?終末期古段階(2世紀末ごろ)の四隅突出型墳丘墓[10]。全体の4分の3が破壊された状況であるが、方形部南北35メートル×東西24メートル[注釈 2]になる大形の四隅突出型墳丘墓である[9]。第1主体(木棺もしくは木槨葬)の土壙の底に、砂利と赤色粘土もしくは赤色顔料[注釈 3]が敷かれていた。ただし第1主体は中心的な埋葬施設ではないと考えられる。ガラス腕輪や、吉備特殊器台・特殊壺などが出土している。[11]全形を復元したうえで、内部に埋葬時の様子[注釈 4]を見学できる装置と展示パネル[注釈 5]を用いた展示室が設けられている[14]。2号墓の整備作業中に横穴墓群第2支群が発見された[12]
3号墓
弥生時代後期後葉(2世紀後半)の四隅突出型墳丘墓[6]。規模は東西40メートル×南北30メートル、高さ4.5メートル[注釈 6]。突出部は付け根の幅7-8メートル、長さ6-7メートルの幅広大形で、この突出部上面が墳頂への墓道と考えられている。斜面は貼石で覆われ、突出部から墳頂にかけての稜線部分は石を敷き詰めた道のようになっている。墳丘頂上には8つの埋葬施設があり、首長とその家族のためのいくつかの墓壙が掘られていた。そのうちの最大の墓壙の上には4つの柱穴が検出されており、何らかの施設があったものと考えられている。[6]9号墓に次ぐ規模の四隅突出型弥生墳丘墓である。江戸時代には仏教施設[注釈 7]があり周囲に基壇が設けられていた。1983年から10年にわたる詳細な調査が行われた。上部に首長が埋葬された第4主体があり、脇にその家族が被葬された第1主体がある。第4主体は深さ1.4メートルの土壙が掘られ、木槨の内側に木棺を置く埋葬である。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、ガラス管玉20個と鉄剣が出土した。第1主体からは副葬品として碧玉製管玉、ガラス製品(小玉、垂玉、管玉、勾玉など)が大量に出土している。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北近畿・北陸地方の土器に似ているものが多い[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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