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この項目では、東京都新宿区の町名について説明しています。その他の用法については「西落合」をご覧ください。
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}日本 > 東京都 > 新宿区 > 西落合 (新宿区)
西落合(にしおちあい)は、東京都新宿区の町名[5]。現行行政地名は西落合一丁目から西落合四丁目。住居表示実施済みの地域。旧地名は「葛ヶ谷」(くずがや)。 新宿区の最北西部に位置する。町域北部から東部は目白通りに接し、これを境に豊島区南長崎に接している。南東部から南部一帯は、新宿区中落合に接している。南西部は、概ね妙正寺川沿いに接し、中野区上高田に接する。西部は、中野区松が丘・中野区江古田・中野区江原町にそれぞれ接している。中央部を新青梅街道が横断している。 主として住宅地として利用される。隣接している哲学堂公園の一部も西落合になる。ただし公園の敷地の大半は中野区松が丘で、公園も中野区の管轄になる。 目白通り、中野通り及び新青梅街道沿いを除き、西落合一丁目の一部、二丁目の一部、三丁目の全域及び四丁目の全域は、第一種低層住居専用地域に指定されている。これらの地域の建ぺい率は50%、容積率は100%であり、新宿区内で最も低い割合である。整備された道路等と相まって、古い歴史と緑に囲まれた閑静な住宅地となっている[6]。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、西落合3-17-5の地点で64万4000円/m2となっている[7]。 旧地名は「葛ヶ谷」(くずがや)である。 葛ヶ谷は、1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」にも見られる古い地名であり、桂(葛)大納言源経信の住地で葛ヶ谷と言われたとされる[8]。もっとも、その他にも、葛ヶ谷の「葛」は「国栖」とも書き、林野に住む人の意味とする説、葛の生えている原だったから名付いたとする説、自性院中興の祖といわれる鑑秀上人の詠歌に「あさひさし ゆうひかがやく かつらがや みだのじやうどや ぢぞうかんのん」とあり、葛ヶ谷は古くは「かつらがや」と読み、それが中期以降に「くずがや」と呼ぶようになったとする説等がある[9]。 武蔵国葛ヶ谷村、明治初期の品川県葛ヶ谷村、1878年(明治11年)11月2日の郡区町村編制法施行後の東京府南豊島郡葛ヶ谷村、1889年(明治22年)5月1日の町村制施行による南豊島郡落合村大字葛ヶ谷、1924年(大正13年)2月1日の落合町成立後の豊多摩郡落合町大字葛ヶ谷、1932年(昭和7年)10月1日の東京市編入後の東京市淀橋区西落合一?三丁目等の名称変更を経て[8][10]、1965年(昭和40年)8月1日の住居表示実施により、現在の東京都新宿区西落合一丁目から四丁目となった[11]。 内務省によって1933年(昭和8年)に第三次指定風致地区の1つとされた野方風致地区に、西落合の一部が含まれている。この野方風致地区は1963年(昭和38年)10月に廃止された。 2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目世帯数人口 国勢調査による人口の推移。 人口推移年人口
地理
若葉通り(西落合三丁目)(2017年5月)
本田宗一郎邸(西落合四丁目)(2017年5月)
地価
歴史
町名の変遷
風致地区
世帯数と人口
西落合一丁目2,921世帯4,615人
西落合二丁目2,592世帯4,266人
西落合三丁目1,908世帯3,174人
西落合四丁目1,360世帯2,335人
計8,781世帯14,390人
人口の変遷
1995年(平成7年)[12]12,337
2000年(平成12年)[13]12,572
2005年(平成17年)[14]13,148
2010年(平成22年)[15]13,415
2015年(平成27年)[16]13,699
2020年(令和2年)[17]14,257
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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