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7世紀、西突厥の最大版図
公用語古テュルク語[1](テュルク諸語のひとつ)
首都スイアブ(三弥山)
千泉
鏃曷山の西(北庭)
?合水の北(南庭)
可汗
581年 - 587年阿波可汗
619年頃 - 628年統葉護可汗
651年 - 657年阿史那賀魯
変遷
突厥より独立582年
唐の支配下657年
滅亡741年頃
西突厥(にしとっけつ、せいとっけつ)は、582年に突厥が東西に分裂した際の西側の勢力。これに対し東の勢力を東突厥という。
西突厥は中央アジアを支配し、東はアルタイ山脈、南はタリム盆地・トハリスタン、西はカスピ海までをその版図とした。657年、西可汗の阿史那賀魯が唐に捕らえられて以降、西突厥は唐の羈縻政策下に入った。741年頃に西突厥の阿史那氏が滅ぶと、その後は突騎施や葛邏禄(カルルク)が実権を握るようになった。西突厥は別に十姓(オン・オク、on-oq、[2])とも呼ばれた。 以下の記述は『旧唐書』(列伝第百四十四下 突厥下)・『新唐書』(列伝百四十下 西突厥)に依るもの。 突厥の伊利可汗(在位:552年)は柔然から独立すると、シル川方面に弟の室點蜜を配置し、西方の守備と攻略を任せた。 木汗可汗(在位:553年 - 572年)の代になり、室點蜜はサーサーン朝と協同でエフタルの攻略に乗り出し、567年頃までにエフタルを滅ぼした。 576年頃に室點蜜が亡くなったため、子の?厥(てんけつ)はその後を継いで、達頭可汗(西面可汗)に任ぜられ、中央アジアの統治を任された。 581年、大可汗の他鉢可汗(タトパル・カガン、在位:572年 - 581年)は病にかかり、子の菴羅に「大邏便を避けよ」と言い残して死去した。国中は大邏便を立てようとしたが、その母が卑賤の生まれだったので、国人たちは貴人の母をもつ菴羅を可汗とした。大邏便はまたも可汗位に就けなかったので、毎回人を遣わして菴羅を罵辱させた。これに対処しきれなかった菴羅は可汗位を従兄の爾伏可汗(ニワル・カガン)摂図に譲り、第二可汗に退いた。可汗に即位した摂図は沙鉢略可汗(在位:581年 - 587年)となり、大邏便に阿波可汗の称号を与えた。 582年冬、隋の文帝は河間王楊弘・上柱国の豆盧勣・竇栄定・左僕射の高?・右僕射の虞慶則を元帥とし、長城を出て征討に出た。沙鉢略可汗は阿波可汗・貪汗可汗 587年、沙鉢略可汗が亡くなり、東突厥で葉護可汗(ヤブグ・カガン、在位:587年)が即位すると、隋の支援により西突厥が攻撃され、阿波可汗は捕えられた。7世紀初めの東西突厥可汗国。 泥?処羅可汗(在位:603年頃 - 612年)の代になり、西突厥は彼の失政のために諸国の離反を招いた。大業6年(610年)、隋の煬帝は泥?処羅可汗を狩りに誘ったが、泥?処羅可汗がこれに応じなかったため、煬帝の怒りを買い、煬帝は泥?処羅可汗を廃して達頭可汗の孫の射匱を大可汗の位に就けようとした。これによって射匱は泥?処羅可汗を襲撃して大敗させ、泥?処羅可汗は妻子を棄てて高昌の東に遁走した。
歴史
西面突厥
内戦と東西分裂