西田税
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にしだ みつぎ
西田 税

生誕1901年10月3日
日本鳥取県米子市博労町
死没 (1937-08-19) 1937年8月19日(35歳没)
日本東京都
職業陸軍予備役思想家
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西田 税(にしだ みつぎ、1901年明治34年)10月3日 - 1937年昭和12年)8月19日)は、日本陸軍軍人思想家

日本改造法案大綱を著し国家改造論者として知られる北一輝と親交を持つようになったことから、国家革新の志をさらに大きくするようになったという。西田の思想は革新的な青年将校から絶大に信奉されたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件で国家転覆を図った首謀者の一人として逮捕され、翌1937年(昭和12年)、北とともに刑死した。
経歴

鳥取県西伯郡米子町大字博労町(現在の米子市博労町)に仏具店を営む父・西田久米造、母・つねの次男として生まれた。

1914年大正3年)3月、啓成尋常小学校を卒業。同年に4月鳥取県立米子中学校(現在の鳥取県立米子東高等学校)に入学する[注釈 1]

中学2年生時の1915年(大正4年)9月に広島陸軍地方幼年学校に入学する。1918年(大正7年)7月、広島陸軍地方幼年学校を首席で卒業した[2]。9月陸軍中央幼年学校入学[2]。同年10月福永憲を知る[2]

1919年(大正8年)4月、武断党と闘う[2]。10月宮本進、三好達治、片山茂生、平野勣を知る[2]。宮本を通じ、西岡元三郎を知り、西岡から黒竜会の機関誌『亜細亜時論』の編集者長崎武を紹介される[2]黒龍会本部を訪れ、玄洋社の総帥頭山満の門をたたく[2]


陸軍中央幼年学校卒業
(西田税18歳)

1920年(大正9年)3月、陸軍中央幼年学校を卒業した(成績250名中12番)[2]。卒業時には福永、三好とともに朝鮮行きを志願[2]。4月士官候補生として朝鮮羅南騎兵第27連隊付となる[2]。この当時は日蓮立正安国論を愛誦した[2]

同年10月陸軍士官学校に入学する[3]。急進派の同志宮本進、三好達治、片山茂生、福永憲等と新たな結束を誓う[3]。帝大教授鹿子木員信の紹介で、印度独立の志士ラス・ビハリ・ボースと交遊[3]

1921年(大正10年)9月に青年亜細亜同盟を結成し、長崎武に援助を乞う[3]

1922年(大正11年)4月、宮本と片山に付き添われ、猶存社北一輝と会見した[3]。 5月の帰郷中、山陰日日新聞に「純正日本の建設」を発表する[3]。6月、北一輝の著書『日本改造法案大綱』及び朝日平吾の手記「斬奸状」を校内で印刷配布する[4]秩父宮改称の奉祝宴にて、宮より杯を贈られた[4]。7月に陸軍士官学校を卒業する(第34期、騎兵科30名中12番)[4]。卒業後、猶存社に北一輝を訪ねる[4]。10月に陸軍騎兵少尉に任官して、正八位に叙せられた[4]

1924年(大正13年)2月に父親が死去する[5]。3月、西田家の家督相続を届け出た[5]。6月に広島に転任となる[5]大川周明安岡正篤との交遊が始まる[5]

1925年(大正14年)3月、秩父宮が来陰[6]。夜、松江の宿舎に伺候し、特別列車にも乗車した[6]。秩父宮には、侍官随員を退けて進言する[6][注釈 2]

同年5月病気(肋膜炎)を理由として、依願予備役となる[6]。9月に行われた米子町議会議員選挙に際し、西田は野田雪哉を片腕として町政革新総同盟を結成。選挙の結果、同志8名が当選した。

1926年(大正15年)2月、代々木山谷に一戸を構える[8]。8月に未決監として収監される[8]

1927年(昭和2年)2月に保釈されて出所した[8]。7月に天剣党運動を開始する[8]1928年(昭和3年)には民間右翼と接触を深めた[8]

1929年(昭和4年)3月、不戦条約御托准秦請反対同盟に参加する[8]。その後国民戦線社にも参加した[8]。5月に信州国民党を結成したが、11月に解散して、新たに日本国民党結成、統制委員長となる[8]

1931年(昭和6年)、十月事件が発生する。首謀者の橋本欣五郎中佐に誘われ、参加を決意していたが、計画のファッショ性・権力主義的性格から橋本と対立する。計画は発覚して失敗し、その後西田が密告したのではないかと噂が流れたが、全く弁明しなかった。

1932年(昭和7年)1月、第18回衆議院議員総選挙鳥取市出身の由谷義治代議士を応援する[8]


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