西田厚聰
[Wikipedia|▼Menu]

にしだ あつとし
西田 厚聰
ダボスにて(2013年1月24日
生誕 (1943-12-29) 1943年12月29日
日本三重県
死没 (2017-12-08) 2017年12月8日(73歳没)
日本東京都
出身校早稲田大学第一政治経済学部卒業
東京大学大学院法学政治学研究科
修士課程修了
職業会社員
著名な実績東芝社長
日本経済団体連合会副会長
テンプレートを表示

西田 厚聰(にしだ あつとし、1943年12月29日 - 2017年12月8日[1])は、日本の実業家学位法学修士東京大学1970年)。名の「聰」は旧字体のため、報道等においては西田 厚聡(にしだ あつとし)とも表記される。株式会社東芝取締役代表執行役社長、株式会社東芝取締役会長、社団法人日本経済団体連合会副会長、学校法人沖縄科学技術大学院大学学園理事、公益財団法人国際研修協力機構代表理事会長などを歴任した。
概要

東芝のイラン現地法人にて採用され、31歳の時に東芝本社に入社。日・米・欧にまたがる東芝の海外PC事業を長く担当。海外現地法人出身・PC部門出身でありながら、PC部門における顕著な功績によって、伝統的に重電部門出身者が重用される東芝のトップにまで上り詰めるという異色の経歴を持つ。

東芝ヨーロッパの上級副社長時代には、欧州で東芝のノートPC(日本では「ダイナブック」の商標で知られる)のセールスマンとして、ノートPC(当時は「ラップトップ」とも呼ばれた)の黎明期であるこの時代に欧州で「TOSHIBA」ブランドを確立させ、1986年には東芝をノートPC市場で世界1位のシェアにのし上げる。東芝アメリカ情報システム社の社長時代には、「コンパック・ショック」によるPCの急激な低価格化に揺れる東芝アメリカのPC事業を立て直し、1993年に世界2位に転落した東芝を翌1994年には再び世界一のシェアとする。西田の働きにより、東芝は1986年から2000年(1993年を除く)の長期にわたってノートPC市場でシェア世界1位を維持するという、極めて強力なブランドを確立するに至った。

アメリカ時代の上司だった西室泰三(のち東芝社長)に重用され、東芝の海外におけるパーソナルコンピューター事業を興した功績者の一人として、1995年に東芝本社のパソコン事業部の部長に就任。その後は取締役となり、常務、上席常務、執行専務を経て、2004年には赤字となった東芝のPC事業を建て直すべく、PC事業を担う社内カンパニーのトップに就任。わずか1年でPC事業を黒字に転換した功績が評価され、2005年に東芝の社長に就任した。

社長在任中、社内に過剰な業績改善を指示し(これを西田は「ストレッチ」と称した)、出身母体であるパソコン事業に圧力をかけた結果(特に、ダイナブックの生みの親である溝口哲也を慕う技術畑の人間が弾圧された)、同事業の利益は50億円水増しされることになった。これ以降、東芝では利益の水増しが常態化することとなった。また原子力産業とメモリー事業の2つに経営資源を集中させる「選択と集中」を推し進め[2]、2006年には大手原発メーカーのウェスチングハウスを6400億円で買収することを決断したが[2]、これによって東芝が世界一の原発メーカーになるという「原子力ルネッサンス」の目論見は福島第一原子力発電所事故によって崩壊。2017年には東芝を債務超過に陥れる[2]ことになったため、東芝崩壊の「戦犯[3]」の一人と目されている。

2009年、代表権のない会長に退くが、後任の社長である佐々木則夫と度々対立し[2]、佐々木社長派と西田・西室派による派閥争いによって、福島原発事故後における「原子力見直し」の時代の動きに揺れる東芝をさらなる混乱に陥れた。2014年には相談役に退くが、社長在任中の利益水増し問題が発覚して引責辞任した。

自らが育てたPC部門も売却が取りだたされるなど、東芝の解体が進む中、2017年12月に死去。73歳没。
経歴
生い立ち

三重県出身。三重県立尾鷲高等学校を経て、1968年3月に早稲田大学政治経済学部を卒業し、東京大学大学院法学政治学研究科福田歓一の指導を受け、西洋政治思想史を研究した[4]1970年3月に修士課程を修了[5]。同年の岩波書店思想』8月号には「フッサール現象学と相互主観性--政治社会論の見地からの一試論」という論文が掲載されている[6]。博士課程に進学し、フィヒテの研究を手掛けていたが、日本政治史の研究で来日したイラン出身の女性と出会い、恋に落ちて[7]結婚。イランに渡り、東京芝浦電気(現・東芝)と現地資本の合弁会社に入社、1975年5月に東京芝浦電気に入社する[8][9]
実業家として2013年1月26日世界経済フォーラム年次総会にて

1984年3月から1992年4月にかけて東芝ヨーロッパの上級副社長を務め[8][9]、パソコン事業の創始に携わる。1992年4月に東芝アメリカ情報システム社の社長に就任すると[8][9]、業績不振に陥ったアメリカのパソコン事業を1年で立て直す。1995年6月に東芝のパソコン事業部の部長に就任すると[8][9]1997年6月まで双方を兼任した[9]。1997年6月に取締役となり、1998年6月から2000年6月まで常務、2000年6月から2003年6月まで上席常務を務めた[8][9]。2003年6月には取締役執行専務に就任した[8][9]。パソコン事業を興した功績者として、社長候補の本命となる。2003年度にパソコン事業が赤字に転落すると、西田が手腕を発揮。2003年度第3四半期に142億円の赤字であった決算を、2004年同期に84億円の黒字に転換し、驚異的な回復を果たす。これが決め手となり、2005年6月に岡村正に代わり東芝の社長に就任した。なお、岡村は会長に就任した。

2009年3月、サブプライムローンを発端とした世界金融危機により、2009年3月期決算で2800億円の赤字に転落した結果、2009年6月の株主総会後に社長職の退任と会長への就任が発表された。なお、東芝が設置した第三者委員会の調査により、社長在任時に出身母体であるパソコン事業幹部に対し圧力をかけた結果、2008年に50億円の利益水増しが行われたことが明らかになっている[10]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:61 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef