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西涼の領域(403年ごろ)。
公用語漢語(中国語)
首都敦煌→酒泉→敦煌
涼公[2]
400年11月 - 417年2月李ロ
417年2月 - 420年7月李?
420年7月 - 421年3月李恂
変遷
建国400年11月
北涼により滅亡421年3月
西涼(せいりょう、400年11月 - 421年3月)は、五胡十六国時代に漢族の李ロによって建てられた王朝。首都は敦煌(405年から420年は酒泉)。 後涼末期の397年5月、後涼の建康郡太守段業を擁立した沮渠蒙遜が後涼から自立して北涼を建国した[3][4]。398年4月、段業が敦煌を支配すると、後涼の敦煌郡太守孟敏
歴史
建国期
400年11月、北涼の晋昌郡太守唐瑶(中国語版)が段業から離反し、李ロを冠軍大将軍・沙州刺史・涼公[5]に推戴し、庚子と建元して西涼が建国された[4]。 李ロはかつての前涼のように涼州全域と秦州支配を目指して敦煌やその東方の漢族に帰属を呼びかけ、401年9月には北涼領の酒泉郡や涼寧郡(現在の甘粛省玉門市)が西涼に帰属して、酒泉郡より西を支配する事になった[6]。 405年には大将軍・大都督・秦涼二州牧を自称する[7]。また東方への勢力拡大を目指す李ロは西方の脅威が少ない事もあり、同年9月に酒泉に遷都し、406年9月には南涼と連携して北涼と対立した[6]。また李ロは農耕・養蚕や西域との貿易を奨励して安定した国家を築いた。また漢族社会の伝統に忠実に、学校を作って儒教を振興し、常に漢族文化の保持に努めた[6]。 412年、北涼が南涼から奪った姑臧に遷都し、さらに南涼が衰退すると西涼は北涼からの圧力をもろに受け始め、さらに柔然や吐谷渾からも攻撃されて西涼の衰退が始まった[6]。417年2月に李ロが死去すると、次男で世子の後主李?が跡を継ぎ、東晋から418年10月に都督七郡諸軍事・鎮西大将軍・酒泉公の位を受けた[8][6]。だが彼は父と違って無能な上、いたずらに刑を重くするなど家臣に対して冷酷な仕打ちが多かったことから人望が無く、さらに李ロの死を見た北涼からは417年4月より攻撃され始めた[9]。一時期は西涼も張掖まで迫るなどしたが[9]、420年に北涼の太祖武宣王(沮渠蒙遜)の策略で軍を西秦との国境付近に集結しているのに引っ掛かって家臣の諫言を無視し、7月には北涼に遠征して逆に大敗して捕えられ処刑され、酒泉も陥落した[9]。 このため、後主の弟(李ロの五男)である冠軍侯李恂が跡を継いで敦煌に逃れて冠軍将軍・涼州刺史[10]を名乗って抗戦するも、彼も421年3月に北涼の太祖武宣王(沮渠蒙遜)の攻撃を受けて敦煌が陥落して自殺し、西涼は完全に滅亡した[9]。
勢力拡大
衰退・滅亡期
西涼李氏のその後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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