西洋美術史
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西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術歴史について概説する。
古代ラスコー洞窟の洞窟絵画。明暗を使い分けた体毛の表現などが見られる。
原始美術詳細は「先史美術」を参照

旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や岩陰彫刻(英語版)、丸彫彫刻(英語版)、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する[1]。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる[2]。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである[3]

古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスのクニャック洞窟(フランス語版)に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのラス・チメネアス洞窟(スペイン語版)に描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている[1]

動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある[1]。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される[4]。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる[1]。ソリュトレ期[5]の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期[6]に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている[7]。有名なものとしてはラスコー洞窟アルタミラ洞窟のものが挙げられる[7]。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた[8]

このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている[9][10]

中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した[9]。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる[9]

新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった[11]。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している[12]。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒルドルメンストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである[13]。後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響され原始主義(英語版)に繋がる。ロバート・コールドウェイによって復原されたイシュタル門
メソポタミア美術詳細は「メソポタミア美術(英語版) 」を参照ウルの王墓から出土した「聖樹と牡山羊」。素材の多様化と表現領域の拡大が見られる。

ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた[14]。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している[14]。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた[15][16]。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える[17][18]

紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった[19]。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された[20][16]。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された[21]

ジュムデト・ナスル期(英語版)に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった[20]。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった[20]。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている[20]。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている[22]

セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた[23][24]。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した[25][26]


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