西洋占星術
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人体と十二宮の照応関係を示した獣帯人間(英語版)の図(ベリー公のいとも豪華なる時祷書より)

西洋占星術(せいようせんせいじゅつ)では、アラブ世界西洋諸国で発達してきた、天体が地球に及ぼす効果を研究し予言を行おうとする占星術の体系[1]について述べる。西洋の占星術(羅:astrologia、星々の研究)は、天体は一定の影響を地上にもたらすというマクロコスモスとミクロコスモスの照応という考えに基づいており[1]、一般的に、占う対象に影響を及ぼすとされる諸天体が、出生時などの年月日と時刻にどの位置にあるかをホロスコープに描き出し、それを解釈する形で占う。用いられる黄道十二宮の概念は、初期メソポタミア文明に起源を持ち、ヘレニズム時代にギリシャ人が採用し、ローマ人に受け継がれた[2]。占星術は古代から、天体の位置を測定して計算し宇宙の体系の仮説を作る天文学(羅:astronomia、星々の法則)とともに行われ、惑星の位置の精緻な計算を必要とする占星術という実践が、天文学を推進する最大の力だった[3]現代のホロスコープの一例

古代・中世・初期近代のたいていの占星術(伝統的占星術)は、真面目で洗練された研究・実践であり、当時においては超自然的でも非合理的でもなかった[1]潮汐など、天体の地球への影響は明らかに存在し、惑星の光に何らかの影響が伴っていることは疑う余地もなく思われたため、占星術の真偽が論点になることはなく、天の影響の範囲とその影響をいかに正確に予言するかということがもっぱら論争された[1]

占星術一般がそうであるように、西洋占星術もまた、近代的な科学の発展に伴って「科学」としての地位から転落した。神智学協会神智学の影響を受けてオカルト的な色合いを帯びて復興し、超物理(メタフィジカル)サブカルチャー運動であるニューエイジを経て心理学化・セラピー化の流れも生じた[4]。神智学協会以降広まったサン・サイン占星術[注釈 1]では、太陽のあるサインをもとにして占う。日本の雑誌などでよく見かける十二星座を基にした「マジック的」な星座占いは、これを矮小化・通俗化したもので、初期近代までの占星術の慣行とはまったく異なる[1]

科学史などでは疑似科学に分類されるのが一般的であり、科学的な議論の枠組みをすでに外れているともいえる[5]。科学的な実証研究はほとんど存在しない[5]。人間の理性を重んじる現代の西洋社会において、中世の迷信と嘲笑されながらも人気を保ち続け、現代日本で浸透している占いの中でもポピュラーであり、生活の中に幅広く用いられ一定の社会的存在感を得ている[5]。英語圏には1万人以上の占星術師がおり、2,000万人以上の顧客がいる[2]。現代の占星術では、ホロスコープを作るための計算にコンピュータが用いられている[2]
歴史
起源占星術的予兆を記したタブレット(Venus tablet of Ammisaduqa、Enuma Anu Enlil Tablet 63)詳細は「en:Babylonian astrology」を参照

西洋占星術の起源はバビロニアにあった。バビロニアでは、紀元前2千年紀に天の星々と神々を結びつけることが行われ、天の徴(しるし)が地上の出来事の前兆を示すという考えも生まれた。『エヌーマ・アヌ・エンリル(英語版)』(Enuma Anu Enlil、紀元前1000年ごろ)はそうした前兆をまとめたものである。ただし、当時前兆と結びつけられていた出来事は、君主や国家に関わる物事ばかりで、その読み取りも星位を描いて占うものではなく、星にこめた象徴的な意味(火星は軍神ネルガルに対応していたから凶兆とするなど)を読み取るものに過ぎなかった。

現代にも引き継がれている星位図を描く占星術は、天文学が発達し、惑星の運行に関する知識が蓄積していった紀元前1千年紀半ば以降になって興った(このころも含め、古来、「天文学」と「占星術」の境界の曖昧な時代は長く続いた)。もともとは暦のために整備された獣帯を占星術と結びつけることも、そのころに行われた。現存最古の星位図は、楔形文字の記録に残る紀元前410年の出生星位図(ある貴族の子弟の星位を描いたもの)である。ただし、この時点では、のちのホロスコープ占星術に見られる諸概念はほとんど現れていなかった[6]
エジプト占星術詳細は「en:Egyptian astrology」を参照

古代ギリシャやローマの著述家たちは、占星術をしばしばカルデア人エジプト人がもたらしたものとして叙述している。古代エジプトの墓から出土したチャート

確かに、紀元前4200年の星図をともなうエジプトの占星術の歴史は古い[7]。エジプト人の占星術は、太陽とシリウスの組み合わせが主役になっている。それが、エジプトに肥沃さと活力をもたらしてくれるナイル川の氾濫を予言するものとされた。

しかし、西洋占星術に直接関わるような概念の発達には、エジプト占星術はほとんど寄与していない。「エジプト起源」がかつて語られたのは、アレクサンドロス3世(大王)の征服以後、ヘレニズム文化圏に組み込まれていたエジプト(特にアレキサンドリア)で、占星術が発達したことによって生じた誤伝らしく、正しくはヘレニズム時代における寄与と位置づけられるべきである[8]
ギリシャ人の占星術プトレマイオス詳細は「en:Hellenistic astrology」を参照

332年にアレキサンダー大王によって占領されたあと、エジプトはギリシャの支配下にあった。そして、ヘレニズム文化が栄える中で、初めて本格的にホロスコープを用いる占星術が現れた。出生時における星々の位置から個人の星位図をトレースする試みが普及した。このシステムは「ホロスコープ占星術」と名付けられた。アセンダント(後述)はギリシャ語で「ホロスコポス」とも呼ばれていたからである(星位図そのものを「ホロスコープ」と呼ぶようになったのは、これが語源である)[要出典]。ギリシャで大いに発展したとはいえ、その大部分はバビロニアからもたらされたものであった[要出典]。プトレマイオスの天動説にもとづく天球図(1660年)

ホロスコープの普及は、春分点歳差の発見者とされるヒッパルコス紀元前2世紀)以降のことである。かつて彼は占星術を生み出した人物であるかのごとく位置づけられたが、実際にはバビロニアで天文学と並行して発達した占星術の知識を、ヘレニズム世界にもたらした人物であったといえる[9]。そのバビロニアからもたらされたシステムは、後世作り上げられた完成の域にある程度達したものではあったが、ギリシャ人占星術師たちによっても、個人のホロスコープを描く上での重要な追加がなされた[要出典]。テトラビブロス(1484年)

ギリシャがローマ帝国の支配下に入った後も、ギリシャ人たちによって占星術は発達を遂げた。ローマでもマルクス・マニリウスの『アストロノミカ(英語版)』(西暦1世紀)などが現れたが、西洋のホロスコープ占星術の発展において特に重要だったのは、天文学者・占星術師クラウディオス・プトレマイオスの貢献である。天文学と占星術が未分化だった時代にあって、彼の天文学書『アルマゲスト』とともに、占星術書『テトラビブロス(英語版)』(四つの書)は、その後の西洋占星術の伝統における基盤となった。『テトラビブロス』では第一の書で惑星の冷熱乾湿などの一般的原理が講じられ、第二の書で社会変化を占う占星術が、第三の書と第四の書で個人のホロスコープ占星術が論じられている[9]

プトレマイオスは、古代より天文学界を支配してきた地球を宇宙の中心ととらえ、太陽や惑星が地球の周りを回る「天動説」を集大成して、「プトレマイオス体系」として確立し、天文学や占星術の「世界観」に大きな影響を与えた[10]

ギリシャ人(特にプトレマイオス)のもとで、惑星(太陽、月も含む。後述)、ハウス十二宮などが合理化され、それらの機能も策定された(今日のものは若干の修正が施されている。以下では必要に応じて古典的な解釈にも触れている)[11]
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出典検索?: "西洋占星術" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2018年4月)

バビロニアでも部分的には見られたことだが、ヘレニズム時代以降に占星術の適用範囲は、自然哲学、現代では「科学」と位置づけられるものすべてに広がった。すなわち、植物学化学錬金術)、動物学鉱物学解剖学医学などである。

天上の星々は、地上の諸々の物質との照応関係を持つものとされ、星々に対応する金属(太陽と、水星と水銀など)、鉱石(これが誕生石の起源になったという説もある[12])などが定められた。また、人体との照応関係をもとに「占星医学(英語版)」(Iatromathematica、イアトロマテマティカ。星辰医学、医療占星術)も発達し、その治療に用いる薬草類の研究が天体植物学として体系化された。さらに、前出のマニリウスは全5巻の『アストロノミカ』の第4巻で、占星地理学(世界の地域を十二宮に対応させる)を論じている。
占星医学

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四体液説#医療占星術」および「ユナニ医学」も参照1702年の暦書に掲載された獣帯人間の図

ミクロコスモスとマクロコスモスに照応関係を認め、人間と星位と結びつける観点は、人体の各部位を、星々と結びつけることにつながった。『テトラビブロス』の第三の書でも、占星医学が論じられている。学派によって、その照応関係は異なるが、おおむね頭部を第1のサインである白羊宮に、足先を第12のサインである双魚宮にそれぞれ対応させ、その間に残るサインを当てはめていく。

外科医学でもこうした照応関係は重視され、のちには瀉血で切る部位や時期を決める際にも、占星術的な判断が用いられた。
ローマの占星術

ローマ帝国では、すでに見たように理論面ではギリシャ人に多くを負い、独自の発展はほとんど見られなかった[要出典]。

歴代ローマ皇帝には占星術を重視する者も見られ、占星術師トラシュルスを重用したティベリウス、占星術で最期を予言されたことに怯え、実際に暗殺されたドミティアヌスなどがいたが、キリスト教の広まりとともに衰えた。西ローマ帝国滅亡後にも迷信的とされた通俗占星術は命脈を保ったが、当時「科学」の一端を担っていた占星術の理論体系は、ヨーロッパ社会からは失われた[13]。中世のヨーロッパ社会では、ヴェズレーの大聖堂の彫刻など、獣帯を描いたものも見られたが、それらは主として暦を表していたに過ぎず、占星術との関連を論じるのは適切ではない[14]アウグスティヌス

ローマ帝国がキリスト教化していくと、キリスト教会の権力が大きくなり、教会の反占星術の姿勢が強まっていった。なかでもアウグスティヌスの占星術に対する攻撃は、キリスト教会の占星術に対する態度を決定づけた。キリスト教会は、占星術は人間の自由な意志を宿命論的な側面から脅かすとして問題視した。そして、キリスト教にとっての異端の宗教であるグノーシス派マニ教などが占星術と結びつけて考えられたことも大きかった[15]


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