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西洋剣術
1900年前後のドイツ人による、サーベルの決闘風景
使用武器刀剣
発生国西洋
派生種目フェンシング
表・話
西洋剣術(せいようけんじゅつ)は、西洋で発達した剣技のこと。剣で相手を殺傷するための技術。特に西洋では両刃の剣が主であり、片刃である日本の刀とは扱いが異なる。
騎士の時代、日本と同じように剣術は武術の中の一つであり、短剣術、長柄の武器術、組打ち術と同格に扱われそれらは明確な区別は無かった。剣を使いつつ組討をしたり、接近すると長柄の武器を捨てて短剣に切り替えることは、戦場においては必要だった。
日本と異なるのは弓やクロスボウが騎士の技術としてはなかった。それらは兵士身分の技術であり、騎士は白兵戦を好んだからである。
ルネサンスに代表されるレイピアは軍事用ではなく護身用であった。レイピアは暗殺の多い都市から使用された。レイピアは決闘に使われたとよく言われるが、レイピアは決闘専用ではない。武器として一番身近にあったこの剣が結果として決闘に多く使用されただけである。この時代、レイピアと両手剣は同時に存在したし、三銃士たちも戦場ではブロードソードやサーベルを使った。
目次
1 概要
2 歴史
3 剣の種類と構造
3.1 種類
3.2 構造
3.3 切れ味
4 剣の持ち方
5 バックラーとブロードソード
6 ブロードソード&シールド
6.1 足さばき
6.2 ソード
6.3 盾
6.3.1 強度と材質
6.3.2 盾の精神面
7 ロングソード(甲冑)
8 ロングソード(平服)
8.1 体と足さばき
8.2 構えと攻撃
8.3 カウンター
8.4 ソードレスリング
8.5 ドイツ剣術以外の構えと攻撃
9 レイピア Rapier
9.1 構造
9.2 足
9.3 構え
9.4 間合い
9.5 防御
9.6 攻撃
9.7 ヴォルテ
9.8 喧嘩的なテクニック
9.9 左手
10 東欧系サーベル
11 その他
11.1 抜剣と納剣
11.2 馬上での斬り合い
12 参考文献
13 関連項目
14 外部リンク
西洋剣術は、フェンシングに代表される、西洋の戦闘技術である。刀剣のデザインは剣技と密接な関係が有るため、ロングソード、巨大な両手剣、片手剣
概要
血が付いて切れなくなったり、刃が欠けて使い物にならなくなっては兵器としての実用性に欠けるため、西洋剣では切れ味よりも丈夫さが重視されていた。したがって切れ味を重視する日本刀とは異なる戦闘技術が発達した。
西洋剣術は日本の古流剣術のように連綿と語り継がれているものではなく、銃の発達によって、フェンシングなどスポーツの一種となっていたもの以外、実践的な剣術は学ぶ者がいなくなり、失伝した。現在の西洋古流剣術は再研究され復元されたものであるため、研究者間で解釈の違いがあり、また修正もある。武術考古学:古武術復元学とでもいうべきアカデミックな研究として行なわれる。また、日本の武道のような精神的、哲学的な要素は剣術(道)ではなく騎士道として教えられる。 西洋剣術は剣が実用的な兵器として戦場に出始めたときに、それを効果的に使用すべく技術体系もあったのは間違いないだろう。それはギリシャ時代でより洗練され、ローマ時代には軍隊の教練として必須であった。やがてヴァイキングやゲルマン、ノルマンなど各民族が独自に文化を広げ、それらの中に剣術があったのも間違いないだろう。しかし、ローマ崩壊以後の暗黒時代には十分な資料が無い。
歴史
ドイツではその後ヨハネス・リヒテナウアー(Johannes Liechtenhauer)が登場する。彼はゲルマンスタイルの元祖であった。彼は秘密主義者でありその教えは一連の長い暗号めいた詩 Merkverseとして出版された。その教えは15世紀初頭、ジークモント・リンゲック(Sigmond Ringec)に引き継がれ彼はMerkverseに注釈をつけたことで知られる。
もう一つはイタリアの流れである。北イタリアのフィオレ・ディ・リベリ(Fiore di Liberi)は15世紀にフェラーラのニコロ3世の宮廷剣術指南(マエストロ)に任命された。彼の書『フロス・デュエラトールム Flos Duellatorrym』は素手の組討、ダガー、ロングソード、長柄武器などを使った完全なもので、1410年に出版された。ドイツ、イタリアではその後ハンス・タルホファーやジャコモ・ディ・グラシなどが代表される。
イギリスでは16世紀初頭にジョージ・シルバー(George Shilver)が登場する。かれはブロードソードの達人であった。彼の書『Paradoxes of Defense』と『Brief Instructions on my Paradoxes of Defense』は戦いの哲学ともいえるもので、またそのころ広がり始めたレピアへの非難書でもあった。
当時、剣術は教養の一部とされ、多くの剣術学校があった。また、軍隊では必須教練として剣術を教えた。しかし、その後の、火薬と銃の発達に従い西洋剣術は消えていく。
ここでいう盾とは戦闘時に手に持って防御するものをいい(手盾)、矢よけのような据え置き式は言及しない。 盾はギリシャやローマを例にするまでもなく、最も基本の防御であった。鎧を作るよりもコストが安く、だれにでも使えるためである。一説によれば盾は肉食獣などの狩猟時に身を守る防具がはじまりともいわれる。盾の分布は西洋、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカ、全ての場所で見られる。しかし、日本では古代の一時期をのぞいて手盾はほとんど見られない。 西洋の古代の軍における戦術は盾の使用法と密接なつながりがあった。マケドニアのファランクスなどでは長槍と盾を持ち密集して重なる。盾は左隣の兵士の体右半分を隠す。このため盾を失う事は仲間を危険にさらす恥ずべき行為とされた。またファランクスの最右は右半身がさらされる為、勇気ある者がこの場所を担った。ローマでは盾のフォーメーションが更に発展し、亀甲陣形など盾が主体に行なわれた。