西沢道夫
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西沢 道夫(西澤 道夫)中日選手時代(1949年)
基本情報
国籍 日本
出身地東京府荏原郡大崎町(現:東京都品川区
生年月日 (1921-09-01) 1921年9月1日
没年月日 (1977-12-18) 1977年12月18日(56歳没)
身長
体重182 cm
73 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手一塁手
プロ入り1937年
初出場1937年
最終出場1959年3月15日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


品川区立第二日野高等小学校

旧制鹿児島総合中学校

日本大学(中退)

名古屋軍
中部日本軍
(1937 - 1943, 1946)

ゴールドスター
金星スターズ
(1946 - 1948)

中日ドラゴンズ
名古屋ドラゴンズ
中日ドラゴンズ
(1949 - 1958)

監督・コーチ歴


名古屋ドラゴンズ
中日ドラゴンズ (1951 - 1952, 1954, 1956, 1958, 1963 - 1967)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1977年
選出方法競技者表彰
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西沢 道夫(西澤 道夫、にしざわ みちお、1921年9月1日 - 1977年12月18日)は、東京府荏原郡大崎町(現・品川区)出身のプロ野球選手投手内野手)・コーチ監督解説者

現役時代は中日ドラゴンズ及びその前身球団を中心に活躍し、戦前には長身の快速球投手・打者転向後の戦後は細身のバット・華麗な打撃フォームの強打者として人気を集めた[1]。初代「ミスタードラゴンズ」と呼ばれ[2]、2代目・高木守道や3代目・立浪和義とともにファンから認知されている。セ・リーグ初のベストナイン(一塁手部門)も受賞している。

また、「文ちゃん」(ブンちゃん)の愛称で親しまれた(#プロ入り・投手時代を参照)。
経歴
プロ入り・投手時代

1936年12月、15歳で名古屋軍[3]の入団テストを受け投手として入団。テスト受験当時、品川区立第二日野高等小学校高等科2年。最終学歴は旧制小学校卒となっているが、プロに進んでから、旧制鹿児島総合中、日本大学に在籍した。

年齢不足のため1年目となる1937年は当初養成選手(練習生)として過ごし、9月5日に公式戦初登板。満16歳と4日での公式戦出場は、現在も日本プロ野球史上最年少記録である。

練習生として入団した当時、小学生ながら高い身長であるのを見たコーチが、当時人気の巨漢大相撲力士出羽ヶ嶽文治郎に当てはめ「大きいなぁー、まるで文ちゃんみたいだな」とほめた事により、上記愛称が定着した。また、日本プロ野球の正式登録選手として初の「背番号0」は1983年広島東洋カープ所属の長嶋清幸であったが、西沢はその46年前に0番を付けていた[4](正式登録後は5番に変更)。

戦前日本のリーグ戦では珍しい、六(身長182センチ)の長身を活かした速球投手として活躍。1939年に6勝を挙げると、翌1940年は20勝を挙げて一躍主力投手になった。しかし以降は好投するもなかなか勝ち星が付かず、2桁勝利は同年だけであった。

1942年5月24日大洋戦(後楽園球場)に先発。大洋の鉄腕野口二郎と投げあい、世界最長となる延長28回を311球で完投した。同年7月18日にはノーヒットノーランも達成する。1943年のシーズンを最後に応召。
球界復帰・打者転向

1946年に復員し、当時の中部日本軍に復帰。しかし応召中に肩を痛めていたせいで満足な成績は残せず、復帰した際には投手として活動できなかったため、ベンチを暖めるようになっていた。更に戦後新入団の杉浦清が監督に就任して以降、チームは内紛続きで雰囲気が悪くなり、居づらくなっていた。そこに新球団ゴールドスターの監督を務めていた元同僚であり先輩の坪内道典から入団を誘われた。打者として再生させるという条件付きだったが、中日の嫌な雰囲気から逃れたかった西沢は、シーズン途中でゴールドスターに移籍し、一塁手に転向。坪内の指導により、打者として再出発を図った。以来西沢は坪内を父のように慕い、1949年に中日が復帰を要請した際にも「坪内さんも一員に加えてください」と懇願し、共に復帰を果たした。

打者転向に3年を費やし、坪内と共に中日に復帰した後はスラッガーとして活躍。1949年に37本塁打を記録。翌1950年は46本塁打を記録したが、日本プロ野球史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンス小鶴誠(51本)に及ばず、本塁打王は取れなかった[5]。また、同年シーズンは5本の満塁本塁打を放ち、これは現在も日本記録である。

1951年から1952年は打撃コーチ兼任。1952年は打率.353・98打点首位打者打点王の2冠を獲得する。再び打撃コーチ兼任となった1954年には主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。

1955年、監督を務めた天知俊一が球団の重役に栄転し、正捕手野口明選手兼任監督に就任。野口新監督は西沢に「今年一塁手として新人選手を獲得したから、今年から外野を守ってもらいたい」とコンバートを通告した。西沢は打者転向以来主軸として一塁を守っており、新人獲得を理由とした転向は不本意で、本来ならいがみ合いとなるところだったが、西沢は角突きあいを好まず、失踪により抵抗の意を示した。結局この行動が引退まで一塁のポジションを守る決め手となった。

1956年、助監督兼任。1958年に再び打撃コーチを兼任し、同年に現役引退。背番号15は永久欠番となった(ヘッドコーチ・監督として復帰後も使用)。中日では服部受弘の10を含めて2つだけの欠番は、両選手を辞めさせるときの「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている[6]

投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(他には同時期に同チームで活躍した服部受弘や、近鉄巨人で投手・打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方でレベルの高い活躍を見せた。後年の二刀流大谷翔平のような投手・打者の同時進行というわけではないが、投手として20勝(1940年)、打者として40本塁打(46本塁打、1950年)の双方を記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。


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