西條八十
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西條 八十
(さいじょう やそ)
西條八十
ペンネーム柳水巴
誕生西條 八十
1892年1月15日
日本 東京府東京市牛込区
(現:東京都新宿区
死没 (1970-08-12) 1970年8月12日(78歳没)
日本 東京都世田谷区成城
墓地東京都立八柱霊園
職業詩人フランス文学者、作詞家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴早稲田大学文学部英文科
活動期間1919年 - 1970年
ジャンル抒情詩童謡歌謡曲
デビュー作『砂金』(第一詩集)
子供西條八束三井ふたばこ
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西條 八十(さいじょう やそ、新字体:西条、1892年明治25年〉1月15日 - 1970年昭和45年〉8月12日)は、日本詩人作詞家仏文学者早稲田大学文学部文学科元教授。

長男の西條八束陸水学者。長女の三井ふたばこ(西條嫩子)も詩人。孫の西條八兄はエレキギター製作者。

自費出版した処女詩集『砂金』(1919年)が好評を博し、抒情性に富んだ清新な詩風で、象徴詩人としての地位を確立。童謡、歌謡曲の作詞も多く手がけた。作品に詩集『一握の玻璃』(1951年)など。
生涯

東京府東京市牛込区牛込払方町(現在の東京都新宿区払方町)出身。石鹸の製造販売業で財を成したが、父親の死後、家庭は没落した。1898年明治31年)、桜井尋常小学校に入学。松井喜一校長に影響を受ける。

旧制早稲田中学校(現・早稲田中学校・高等学校)在学中に吉江喬松と出会い生涯の師と仰ぐ。吉江に箱根の修学旅行で文学で身を立てたいと打ち明け、激励を受ける。中学時代に英国人女性から英語を学んだ。明治末には、奈良英和学校の後進校で学ぶ[1]。正則英語学校(現在の正則学園高等学校)にも通い、早稲田大学文学部英文科卒業。

早稲田大学在学中に日夏耿之介らと同人誌『聖盃』(のち『仮面』と改題)を刊行。三木露風の『未来』にも同人として参加し、1919年大正8年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立した。後にフランスへ留学しソルボンヌ大学ポール・ヴァレリーらと交遊、帰国後早稲田大学文学部文学科教授

日中戦争が始まると他の従軍文士らとともに大陸に渡り、南京や漢口などの戦地に赴いた[2]。また、日本文学報国会詩部会幹事長として戦争協力を行い、軍人援護強化運動として「起て一億」の作詞を担当した。1943年(昭和18年)には早稲田大学時代の同級生・外池格次郎が当時町長を務めていた茨城県真壁郡下館町(後に下館市を経て、現・筑西市)に疎開。以後戦後まで下館を拠点としていた。

戦後日本音楽著作権協会会長を務めた。1962年昭和37年)、日本芸術院会員。象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした「青い山脈」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「蘇州夜曲」、古賀政男の故郷風景ともいえる「誰か故郷を想わざる」「ゲイシャ・ワルツ」、村田英雄の男の演歌にして船村メロディーの傑作「王将」など無数のヒットを放った。

また、児童文芸誌『赤い鳥』などに多くの童謡を発表し、北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された。薄幸の童謡詩人・金子みすゞを最初に見出した人でもある。

1970年(昭和45年)8月12日、急性心不全のため世田谷区成城の自宅で死去。78歳没。戒名は詩泉院釈西條八十[3]。墓所は千葉県松戸市に在る東京都立八柱霊園である。
エピソード

名前は
筆名ではなく、本名である。両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名したらしい。

早稲田大学の同じクラスには、後に文壇で活躍する植村宗一(直木三十五)、宮島新三郎田中純木村毅青野季吉細田源吉細田民樹らがいた[4]

長兄が放蕩者だったため、三男だったが家督相続人となった。長兄は家財を持ち出して芸者と駆け落ちし、さらに店の経営を任せていた支配人の横領まで発覚したため、西條家の財産や土地は全て借金の抵当に入れられていた[5]。大学生のときには、家族を養うために兜町証券取引所に通い、株式投資で生活をしていた[6]。結婚後は、天麩羅屋経営で糊口をしのいでいた。

森村誠一の小説『人間の証明』の中で、『ぼくの帽子』(『コドモノクニ』)が引用された。1977年に映画化の際、引用されたセリフはキャッチコピーとして使われ、有名となった。なおテレビドラマは、5度製作放映された(2017年8月現在)。

1967年に作詞した「夕笛」は舟木一夫によって歌われ、最後のヒット曲となったが、三木露風の「ふるさとの」に酷似していたことから一時盗作騒ぎになった。八十は「露風本人の了解を得ていた」と弁明し、露風の遺族も特段異議を申し立てなかったため、真相不明のまま終息している。

担当編集者の回想に、宮田毬栄『追憶の作家たち』(文春新書、2004年)があり、第2章に晩年の八十が描かれている。著者は友人の詩人大木惇夫の次女である。

西條が『砂金』に収録した『トミノの地獄』という詩について、”この詩を声に出して朗読すると呪いに罹って死ぬ”という、いわゆる都市伝説が存在する。内容は「トミノ」という少年が地獄を旅するという内容で、これは西條が亡くなった父もしくは妹に奉げる為に書いたとされるが詳しいことは不明。

政治家佐藤栄作寛子夫妻とは懇意の仲であり、両家の別荘があった軽井沢では、毎夏ともに過ごすほどであった[7]。なかでも寛子夫人とは、借家住まいの頃の大家が寛子の叔父であった縁から長い付き合いであった[8]

主な著作中山晋平(右)とともに(1931年、熱海)


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