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政治家の「西村茂生」とは別人です。
にしむら しげお
西村 繁男
生誕 (1937-05-31) 1937年5月31日
死没2015年5月??日
出身校早稲田大学第一文学部
職業雑誌編集者
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西村 繁男(にしむら しげお、1937年[1]〈昭和12年〉5月31日 - 2015年〈平成27年〉5月[2])は、日本の雑誌編集者。東京都出身。『週刊少年ジャンプ』の第3代編集長、『フレッシュジャンプ』『スーパージャンプ』の初代編集長。 1937年、東京都港区の公務員の家庭に生まれる。麻布中学校・高等学校、早稲田大学第一文学部を卒業。新人文学賞の候補に名前が上がるほどの文学青年だったという。大学卒業時は『群像』の編集者を志望するが、講談社の入社試験に落ち、一年間の就職浪人(この時点で既婚)を経験する。1962年に24歳で集英社へ入社。幼年誌『日の丸』の編集部に配属になるが、配属後半年で廃刊になったため、『少年ブック』編集部へ異動。ちばてつや、横山光輝、松本零士などを担当した。 1968年、『少年ブック』時代の上司だった長野規らと共に『少年ジャンプ』の創刊に携わり[1]、梅本さちお、荘司としお、川崎のぼる、本宮ひろ志などを担当した。1973年より『週刊少年ジャンプ』副編集長、1978年に第3代編集長となった。また、1974年からは集英社労働組合の委員長に就任していた(一期) 。 1982年、『フレッシュジャンプ』を創刊し、編集長を兼任する。1986年、『週刊少年ジャンプ』の編集長を後藤広喜に、『フレッシュジャンプ』の編集長を中野和雄にそれぞれ譲り、『スーパージャンプ』の創刊編集長に就任した。1989年より集英社の役員待遇となる。1994年に集英社を退社[1]。退社後は編集者時代の回想を軸とした執筆活動を行っていた。以降の詳細は不明だが、複数の関係者によると2015年5月に死去したとされている[2]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴
人物
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『少年ジャンプ』創刊号からの編集者であり、のべ18年に渡ってジャンプの編集者を務めた。編集長に就任した1978年以降、『週刊少年ジャンプ』の発行部数を飛躍的に伸ばし、いわゆる「ジャンプシステム」を確立した。また、多数の有名漫画家、編集者を育成し、その実績をもとに集英社内の派閥争いでも剛腕を振るった。宮下あきらの「私立極道高校」で起きた不祥事(私立極道高校実在学校無断掲載事件)では率先して対策に当たり、抗議集会に参加したその場で、漫画の回収・中断を会社に報告せずに決めた。