西村正夫
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銀行家の「西村正雄」とは別人です。

西村 正夫
基本情報
国籍 日本
出身地香川県高松市
生年月日 (1912-09-01) 1912年9月1日
没年月日 (2002-11-28) 2002年11月28日(90歳没)
身長
体重164 cm
56 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手
プロ入り1936年
初出場1936年4月29日
最終出場1950年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


香川県立高松商業学校

関西大学

阪急軍
阪急ブレーブス
(1936 - 1944, 1946 - 1950)

監督・コーチ歴


阪急軍
阪急ブレーブス (1943 - 1944, 1946 - 1947,1951 - 1960)

東映フライヤーズ (1961 - 1967)

中日ドラゴンズ (1971)

阪急ブレーブス (1974 - 1980)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

西村 正夫(にしむら まさお、1912年9月1日 - 2002年11月28日)は、香川県高松市出身のプロ野球選手監督。ポジションは外野手
来歴・人物

高松商業学校から、関西大学卒業後の1936年に創設されたばかりの阪急軍に契約第1号選手として入団する。しかし、阪急に入団する前に事情が分からないまま阪神とも契約を交わしてしまい、阪神からは違約金として3000円を要求された(毎月20円ずつ払っていたものの、3年後棒引きしてもらっている)[1]

外野手として一年目より規定打席不足ながら打率.387と活躍する。小兵の1番打者で鳴らしバント安打を得意とした[2]。選手業の傍ら1943年から1947年途中まで兼任監督を務め、1948年に他球団に先駆けて二軍制度を導入した[2]1950年限りで選手を引退した。1951年から助監督となり、1954年から1956年まで二度目の監督を務めた。藤本定義が監督に招聘された1957年からはコーチとなり、1960年に退団するまで阪急一筋だった。

1961年、高松商の先輩・水原茂の誘いで東映フライヤーズのコーチに就任し、1962年のリーグ優勝と日本一に貢献。その後は中日ドラゴンズのコーチ、スカウトなども務め、1974年から再び二軍監督として阪急に復帰。1978年はシーズン途中に気管支肺炎で入院した上田利治に代わり監督代理として一軍で指揮を執った[3]。1980年を最後にフロント入りし、球団参与を務めた[2]

2002年11月28日に肺炎で死去[2]
詳細情報
年度別打撃成績

















































O
P
S

1936春夏阪急15786215242203075--0--16--04--.387.513.484.997


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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